第2章 お茶の時間 (7)

 金輪際、おまえの正面には座らない、と斐竜に宣言した翠燕が着替えのために一足先に食堂を出る。
「怒っちゃったよ」
 いいのかい、とジェスが斐竜に問う。斐竜は笑う。
「うん、大丈夫、きっと。……隣に座るんじゃない? 次からは」
「そうだろうね。さて、と」
 連幸はテーブルの上に吹き零れたお茶を布巾できれいにふき取ると、食器を片付けながら言った。
「フェイ、翠燕といっしょに白王獅子を回収に行くんだろ?」
「うん。でも、食事当番だからね。片付けの後で、かな」
「行っておいで。当番はかわってあげるから。白王獅子の回収は大切なことだろ」
 でも、と言いかけた斐竜を、ボスの特権を行使するに値する事情だよ、と連幸は諭した。
「他の誰かに回収されちゃったら、困ったことになるよ。それに回収が済んだら、次はジェスさんとの交渉。予定は詰まってるんだから、誰かに代わってもらえる用事に時間を割くのは賢明じゃない。さ、急がないと、置いていかれちゃうぞ」
「うん。ありがと、連幸。じゃ、行ってくる。当番と、それとジェスのこと、よろしく」
「わかった。行ってらっしゃい」
 にっこりと笑って斐竜を送り出した連幸に、ジェスは違和感を覚える。
 怪訝そうな表情に気付いたのか、連幸が逆にジェスに問い掛けた。
「どうかしましたか」
「ん、いや。……花散里のときと、フェイへの接し方が随分違うんだな、と思って」
「ああ、そのことですか」
 無造作に束ねた真珠色の髪が、ひとすじ、頬にかかる。それを何気ない仕種で掻き揚げた連幸は、食器を片付ける手を休めて、もういちどジェスの前に座りなおした。近くを通った少年を呼び止め、花竜が白王獅子の回収に向かったことを告げる。そして食事の後片付けは自分が穴埋めすることを厨房責任者に伝えるよう指示した。斐竜と同じ年頃の彼は、ジェスにちらりと視線を投げる。目が合うとにこっと笑い、ぺこりとお辞儀をして少年は挨拶した。育ちの良さを感じさせる仕種。この子も、ワケアリってことか、とジェスは内心痛ましさを感じた。イオンと名乗った少年は名のとおり董のように深い色合いの瞳をしていた。おそらくは偽名だろう。どこかで見たことがあるようにも思えるのだが。
「でしたら、僕が後片付けに入ります。だって、連幸さまにはお客様のお相手があるでしょう」
 イオンは随分と楽しそうにジェスと連幸の食器を退くと、そのまま厨房に向かう。ちょっとずるいんじゃないのか、とからかうジェスに、いたずらを見つけられたときの子供のような、困惑と照れが入り混じった笑顔で連幸は弁解する。
「最近、仕事の成り行きで斐竜が拾った子です。あの子の将来の夢は、城の料理長なんですよ。厨房にいるときが一番楽しそうですね。逆に強化訓練中なんて、悲壮感ただよってますから。今朝の教練の担当は鬼の青鸞ですし、彼にとっても悪い話じゃないはずです」
 この場合、お互いの利が一致してるんですから、いいでしょう。
 さぼりの口実を与えてもいいのかい、副官自らが、とジェスがおどけた調子で問えば、連幸はにこやかに応じる。
「向き不向きがありますから。不向きなことに時間を割くより、好きなことを得意にするために時間を費やすほうが無駄がないでしょ」
「戦闘員としての才能は彼には皆無、と?」
「無理を押しても得られるものは少ないって、思いませんか」
 やさしい微笑みのまま手厳しいことを言う連幸だが、無理をさせずに適性を生かせる道を歩ませようとする彼の思いやりが、ジェスには好ましかった。

「意識してるわけじゃないんですけどね」
 斐竜に対する接し方が違う、というジェスの指摘に連幸はそう応えた。食堂から連幸の私室に場所を移して会話は続く。客間に行きませんかという連幸の誘いに、客間での翠燕とのティータイムを思い出したジェスが、客間より自室がいいと言ったためだ。
「それなら、俺の部屋のほうが、若干広いですから」
 そういう次第で、ジェスは連幸の部屋にいる。
 連幸の部屋は、ジェスに与えられた客室の食堂をはさんで反対側にあった。中庭に面した連幸の部屋にはやや大き目の窓がある。開け放した窓からの風で、カーテンが揺れている。ブラインドではなく、カーテンというのが連幸らしい。やわらかな朝陽に満たされる室内には簡素ではあるが質の良い家具が置いてある。どうやら連幸はアンティークが好みのようだ。白いラタンのねこ脚のティーテーブルと二客の椅子、テーブルの上に置かれたウェッジウッドのティーセットを見ながらジェスは感心する。よく似たまがい物や、復刻版ではなく、保存状態のよい本物を使用する連幸の度胸に。
「ああ、それですか。以前、お客さまにおねだりしたら、くれたんですよ。お客様っていっても、城のほうの、ですけどね」
 細くてきれいな指を唇に当てて、翠燕には内緒ですよ、と連幸は少女のように笑った。
「翠燕は世に稀な堅物です。お客様におねだりしたことが知れたら、目をこんなに吊り上げて怒るでしょうから」
 連幸の笑顔はバリエーションが実に豊かである。およそ感情表現のすべてを笑うということばで括られる表情で行えるのではないかと思う。眉のちょっとした動きや角度、まぶたの伏せ方、頬の緊張、口元のかすかな違いが連幸の笑みに、意味付けをする。
「いろいろありますけど、何にしましょうか。ダージリン、オレンジペコ、ジャパニーズグリーンティ、チャイニーズティ……お勧めは、翡緑茶かな。チャイニーズティなんですけど、きれいな緑色の非発酵茶です」
「じゃ、それがいいな」
 お茶を淹れる連幸の動きはやわらかく澱みない。そこには無駄も隙もなく、しかし同時にゆとりと緩和された気が漂う。振り返りつつ、連幸は言った。
「そのティーセットの贈り主は花散里を身請けするつもりなんですよ。でも、ちょっと無理ですねえ。俺は身請けされてあげることができませんから」
「身請け、ね。それは確かに難しいな。気の毒に」
 失笑と苦笑が入り混じる。花散里が連幸である以上、不可能だ。男性であること、なにより花竜の片腕であることで。オークションでしか手に入らない時価さえつけられないティーセットを贈ってまで花散里の関心を引こうとしている人物が、彼女の正体を知ったら、顎を外して卒倒するだろう。それとも、それでも身請けしたいというだろうか。意地悪な笑みがこみ上げる。
「でも、そいつが身請け金を積んできたらどうするんだ?」
「花竜が、それ以上の金額で身請けするでしょうね」
「ごもっとも」
 双璧のひとつを花竜が手放すとは考えられない。いや、斐竜が連幸を手放すようには思えない。
 それにしても、とジェスはことばを続ける。
「こうして見てると、連幸と花散里っていうふたりの人間がいるような気がするんだよな」
「どっちも俺ですよ」
 翠燕のお茶は、翠燕にしか調合できないので、ご心配なく、と彼はティーカップに注いだ飲み物をジェスに勧めた。本物のリーフティーである。合成モノではない茶は通常手に入らない。カップから立ち上る香気に、花竜という組織の大きさを感じて、ジェスは何度目かの感嘆のため息をついた。
「なりきってる、ってことか。演技派なんだな」
 翡緑茶を一口飲んでジェスが言う。
「そういうことなんでしょうかねえ」
 自らも座り、ティーカップを手に取った連幸は、ゆったりとした動きでお茶を飲んだ。そういうことなんでしょうかねえ、ということばの中に、そういうことにしておきましょうよ、という響きがあった。
 謎の多い連中だな、とジェスは思い、それ以上追求することを断念した。
 いずれ、わかるだろうさ。
 ジェスは質問の方向を変えた。
「どうして花散里なんだ? 出典は源氏物語だろう? 君の雰囲気とは少し違うような……ちょっと地味な気がしないでもないんだけど」
 知りたがりなんですね、と苦笑しながらも、連幸の様子に不快そうな気配は無い。
「……そうですね、花散里は格別にすぐれた姫君ではありませんでした。他の姫君と比べると、見劣りがするのは確かですね。地味で控えめ。だから栄耀栄華の際には、つい、うっかり忘れられてしまう」
 連幸はやわらかく微笑んだ。不思議なことに、そのやわらかさには女性的な要素はかけらも見出せなかった。
「けれどただひとつ、彼女には他の姫君にはない、そして源氏に欠かせないものを持っていました。ご存知でしょうが、花散里は決して他の姫君たちと源氏の寵を争いませんでした。彼女は源氏の愛を求めない。彼の愛を得ることに重きを置いていない。花散里の愛は与えるものであって、与えられるものではないのです。だからこそ、源氏は嫡子を花散里に任せ、六条邸の一切を預けたのです。彼女は源氏からは何も求めなかった。そして、誰も得ることのできなかった彼の信頼を得るに至った、と、俺は解釈しています」
「そう、か。そういう見地から解釈すると、確かに花散里はすばらしい女性だな。ふうん、与える愛、か。花竜後宮の姫君の根底を成す思想の体現、ってとこか」
「そんなところですね。それと、俺にとっての戒めも含んでいますけれど」
 戒めとは何か、とジェスが言う。
 いや、言う前に、連幸が発言したことで、その問いは発せられることなく、過ぎ去る時間の淵に沈んでいった。
「ジェスさん、詳しいんですね。古典に」
「いや。そうでもないよ。源氏物語は有名だからね。……ああ、そういえば、さっき言ってたツツなんとかって……イセ物語とか」
 連幸がそのやわらかな美声で二首の短歌を読んだ。
 筒井筒 井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな 妹見ざる間に
 比べ来し 振り分け髪も肩過ぎて 君ならずして 誰が上ぐべき
「……だったかな。あなたに会えないでいるうちに、私はいつか背丈も伸びて大人になりましたよ。だからお嫁にきませんか、っていうところでしょうか、求婚の歌です。で、返歌が、私の髪も伸びましたけれど、あなた以外の人のために結い上げたりはしませんよ。承諾の歌です。幼いころ、大きくなったら結婚しよう、と約束した二人が、互いの気持ちを確かめ合うために交わした歌ですね」
 つまりは王虎とユリアは幼馴染で、かつてそういう約束をした、ということか。手元を見つめたまま、それはちょっとまずいな、と呟いたジェスの空になった湯飲みに、おかわりのお茶を注いだ連幸はくすくすと笑う。
「とは言っても、王虎の場合、三つか四つのころの約束で、十四、五のときにはそれぞれの家庭の事情で離れちゃったそうですから、ジェスさんが気になさることはないです。王虎には、今、それなりにいい感じの仲の人がいますからね。ユリアさんとは随分感じが違いますけど。そういうことですから、全然、遠慮は要りません。あとでご紹介します」
 黙ってうなずくジェスの様子に、連幸はひっかかりを覚えたようだったが、表立って問うことはしなかった。
 お話になりたくないことは、今、無理に話す必要はないんですよ。視線や表情ではなく、連幸の纏う空気がそう語る。
 ことばとして出されなかった連幸の心遣いに、今は、甘えさせてもらおう。
 そう思い、ジェスはもういちどゆっくりと頷いた。
「ありがとう」
 たゆたう思いはもう少しそのままにして、今はこのお茶の香りを楽しみたい。
「ところで、君は?」
「俺? 何がです?」
 連幸は首を少し左側に傾けた。朝日に淡い金色の輝きを放つ真珠色の髪が頬にかかる。しゃらん、と音が聞こえるようだった。
「恋人」
「恋人、ですか」
 めずらしく、困ったようにジェスのことばを繰り返し、連幸は考え込むように眉根をよせた。
「知りたいですか?」
「ああ、是非とも聞きたいね」
 困ったな、と連幸はつぶやき、諦めたようにため息をつく。
「花散里にはいますよ。便宜上、ですけどね。相手はそのうちわかるので、今、ここでは聞かないで下さい」
「便宜上、か。まあ、そうだろうな。花散里って存在の……裏づけってことだろ?」
 裏づけが、その存在に質感を与える。考えうる限り理想に近い花散里の存在は、ともするとあまりにも理想でありすぎて、夢幻のように頼りない。彼女の思い人の存在が、彼女を現実に引き止めているのだろう。
「ええ」
「それで、連幸には?」
 意地悪くジェスは笑う。
「ごまかされてはくれないんですね。残念ながら、いません」
「うそだろう」
「いえ、本当です。だって、この環境ですよ。どこにそんな相手が? それに他の連中と違って、姫たちも俺にとっては大事な部下ですからね」
 少なくない部下を上手に指揮する第一の条件は、個々の能力に応じて公平に接することである。特に相手が異性の場合は。したがって、私情は厳禁、私情であるとの邪推さえも寄せ付けない鉄壁の公正さが求められる。しかも、彼は花散里として城を治めているために、連幸として城を訪れることは不可能だ。城の姫に手をつけることも可能だが、前述のように不公平を部下に感じさせるのは得策でない。
「実にもっともだ。けど、不公平だな」
「そうですか?」
「だって、翠燕はちょくちょく城の方に言ってるんだろう? 昨日、斐竜がそんなこと言ってたぞ。馴染みの姫でも居るんじゃないのか」
 ジェスのことばが、連幸に反応をもたらすまで、五秒以上の沈黙が二人の間に横たわった。
 機嫌を損ねたかな、と表情の消えた連幸の顔を覗き込んだとき、不意に連幸がうつむいた。
「え、あれ、どうしたの」
 笑いを堪えようとして失敗したのか、連幸の喉がくくくっと小さな音をたてた。彼は笑っていた。
 涙まで滲んだきれいな顔をジェスに向けた連幸は、笑いで途切れ途切れになりながらもこう言った。
「ご親切に、ありがとう。でも、斐竜はそんな不平等な扱いをしませんよ。たしかに彼はしばしば城に訪れますが、決して楽しいとは思っていないんじゃないでしょうか」
 そうだろうか。俺は随分、楽しかったが。
 ジェスの不審はその表情に表れたのだろう。連幸はジェスを見て、もういちど笑った。
「そうですね、通常はそうでしょうね。でも、楽しくない理由は、そのうちわかりますよ」
 俺が話すのも良いんですが、実際見た方が分かりやすいと思うので、と連幸は笑いながら言うと、ティーカップを片付けるために席を立った。

 連幸とののんびりとしたティータイムの後、ジェスは一旦、与えられた客室に帰った。連幸が要塞の中を案内してくれるというので、とりあえず寝癖を直してから、と身支度のために戻ってきたのだ。
 身支度とはいっても、たいしたことはできない。なにせジェスの荷物のほとんどは白王獅子や張じいさんと一緒に、あの煌く谷で炭になってしまった。無事だったのは身につけていたいくつかの貴重品だけ。墜落の瞬間、じいさんはジェスの座席の脱出装置を働かせてくれた。その一瞬に満たない時間差で、じいさんは脱出のタイミングを逃し、白王獅子と一緒に谷底へ落ちていった。脱出装置はジェスを機外に放り出した。飛び散った白王獅子の破片と、岩壁に叩きつけられた衝撃で意識を失っていたのはいったいどれくらいの時間だったのだろう。
 ジェスは足りない記憶を埋めるため、シャワーを浴びながら時間を手繰った。
 城を出たのは午前11時。じいさんとシティの喫茶店で落ち合ったのが12時。白王獅子の中で簡単なランチを取ったのが正午13時。落ちたのは午後4時前だっただろうか。そのときまだ日は高かった。機外に排出された後、落ちてゆく白王獅子の陰から目を射る陽光を見た。だが、意識を取り戻したとき、あたりはすっかり闇に包まれていた。斐竜たちと会話して、ここにたどり着いたのは日付が変わる直前。つまり、およそ10時間ほど、ということか。
 胸の内出血の紫色のあざを見ながらジェスは小さく息をついた。
 よくもそんなに気絶していられたものだ。ユリアの一件以来、眠ることなんてほとんどできなかったのに。
 シャワーを止めて、鏡にうつる自分の顔を見る。濡れた前髪をばさりと掻き揚げる。右半面の大きな裂傷が露わになった。
 引き攣れた傷跡を、ジェスはそっと指でなぞる。指先の感触が、その傷が現実のものであることを教える。
 傷跡は、たぶん一生消せない。右目の視力が戻ることも、ないだろう。そしてユリアも。
 曇る視界。湯気のせいではない。思念を振り払うように頭を大きく振ると、バスローブを着てシャワールームからでた。いつまでも鏡を見つめていると、自我が崩壊しそうだった。
 頭髪の水滴をタオルで軽く拭きながら、部屋の小さな冷蔵庫を開ける。よく冷やされたミネラルウォーターがある。グラスには注がず、ピッチャーから直接口に注ぐ。甘味のある水が、やさしく喉を通過した。
 充分な眠りを、体に与えなかった代償だろう。俺の意識が途絶えると同時に、不足していた眠りを体が要求したのだ。
 ピッチャーを冷蔵庫に戻す。
 ベッドの端に腰掛けて、ジェスは部屋をじっくりと見回した。
 首都で宿泊したホテルと比較して、素直に、こちらの方が上等だと思う。それほどの広さがあるわけではない。だが、必要なものが必要最低限、そして充分に揃えられている。ジェスの与えられた部屋には窓は無かったが、代わりに壁には窓を模したデザインの大きなモニターが取り付けられていた。
 凪いだ海を映している。木製のテラス。翠玉の海、碧空、流れる白い雲。椰子。夏の海の風景。波音。
 エリシュシオンの谷ではなく、リゾート惑星に来たような錯覚を覚える。ごろんとベッドに転がったジェスは波音を聞きながら眼を閉じた。
 そう、窓の向こうには海があり、砂浜が広がり……。
 外へ向かえば、きっとユリアがテラスで本を読んでいる。俺をゆっくりと振り返り、こう言うのだ。
「ジェス、いいお天気よ。わたし、あの島まで行ってみたいわ。ねえ、連れて行ってくれる?」
 どくん、と心臓が大きな音をたてた。痛みを伴うほど、大きな鼓動。息が震える。
 まずい、と思い目を見開く。
 呼吸ができなくなる。胸に何かがつかえたように、痛む。
 気分が急速に螺旋を描きながら沈んでゆく。感情と感覚の全てがフェイド・アウトする。聞こえるのはノイズのような波音と鼓動。悪酔いをしているように視界までもがゆっくりと回転を始めた。視界が広くなり、狭くなりを急激に繰り返す。鼓動が不規則に打ち鳴らされる太鼓のように聞こえる。見上げているはずの天井が遠ざかり、近づいてマーブルのように滲みはじめた。視界が円を描いて揺れ始める。回転の速度が上がってゆく。あらゆるものの輪郭がくずれ、色彩までが融けてゆく。不規則な渦。波音、耳鳴り。幻聴。ユリアの声。歌、あまやかなささやき、笑い声。……笑う? 哄笑だ……。痛い、苦しい、心臓が握りつぶされるようだ。痛い、痛い、痛い。助けてくれ。……助けてくれ、ユリアを。誰か!
 
「ジェス、ジェス、どうしたんです。大丈夫ですか」
 痙攣したように身を震わせたジェスは、飛び起きることもできず、ただ、目だけを見開いた。激しい鼓動のせいで、体が揺れていた。
「……連幸、か」
「そうです。……すみません。何度かノックしたんですけれど、返事がなかったので」
 身を起こしたジェスの背に軽く手をあてて、連幸は顔を覗き込んだ。
「気分、悪そうですね。顔色、真っ青ですよ。大丈夫ですか」
「ああ」
「水でも飲みますか」
「ごめん、出来れば、熱いお茶がいいな」
 おやすいご用ですよ、とジェスの背をとんとんと軽く叩いて、連幸はお茶を用意するために離れた。ジェスの部屋にあるのは緑茶のティーバッグだ。味はともかく、気を静める程度には役に立つだろう。連幸が湯のみに注ぐ湯の音を聞きながら、大きく深呼吸を繰り返す。数度目には動悸も平常に戻った。
「どうぞ」
「ありがとう」
 大きめの湯飲みになみなみと注がれたお茶を、ジェスはゆっくりと、しかし一気に飲み干した。さりげなく飲みやすい温度で出してくれる連幸に感謝する。
「びっくりしましたよ。返事がないから、どうしたのかと思ってドアを開けたら、仰向けにひっくり返ってる。呼吸は荒い、心拍は異常に激しい。見る見るうちに蒼白になっていく。体なんか、びっくりするほど冷えてる。本当に、大丈夫なんですか」
 やせ我慢はしないでくださいよ、と連幸は言う。やせ我慢、ということばが今の状態にあまりにもしっくりとしてしまい、ジェスは青い顔を少し笑ませた。その微笑が、見る者に痛々しさしかあたえない事を、彼は気付いているのだろうか。
 連幸はうつむいたままのジェスを見下ろしながら、その髪を撫でた。
「うん、たぶん、もう大丈夫。いつものことだからね」
「そんなに、頻繁なんですか」
「緊張が緩むと、な。あれだよ、小人閑居して不善を成す、とか言うんだろ?」
「ちょっとニュアンスが違いますが……ヘンな事に詳しいんですね」
 呆れと、安心の交じり合った表情で、連幸は短いため息をついた。
「ああ、本当だ。顔色、戻ってきましたね。よしよし」
 連幸はジェスの頬をかるく手ではさんで上を向かせると、両手でぴたぴたと頬をはたいた。小さな子供のように扱われているようで、なにやらくすぐったい思いがしたのだが、存外それが心地よくて、ジェスは連幸のするままにさせておいた。連幸はジェスより五つは年下の青年だが、その優しい雰囲気はなぜか母親を思わせる。そうか、斐竜は連幸のこの雰囲気が好きなのだろうな。すると翠燕は厳しい父親ってところか。
 くすっと笑ったジェスに、連幸がもう一度確認した。
「傷が原因ではないんですね。痛むようなら、詳しく診察することもできるんですよ」
「原因は、こっちの傷だ」
 顔の傷をなぞりながら、ジェスが呟くように言った。
「何か後遺症が?」
「この傷のせいで、どうしてもユリアを思い出す」
「忘れようとするからじゃないですか」
「え?」
「忘れようとするから、忘れたくないって、心が言うんですよ」
 言いながら、連幸はジェスの隣に腰を下ろした。
「無理をさせないでください。人の心や体は、本人が考えているよりもずっと弱いことが多いんです。ずっと強いこともありますけどね」
「……思い出すと、つらいんだ」
 ジェスはそういいながら視線を連幸から床に落とした。
「うん、本当は、分かってるんだ。辛いのは、俺のせいでユリアをあんな目にあわせてしまったこと、守り通せると過信していた自分の甘さ。そういう責任を、どうしても突きつけられてしまう。その痛みから、逃げてるんだって事は、わかってるんだ」
 だから忘れたいと、そう思っている。けれど俺の良心はそれを許さない。その戒めみたいなものなんだろうな。
 ジェスがそういうと、連幸が驚いたように目を見張った。
「ジェスさん、本気で? 本気でそう思ってるんです?」
 これは重症だなあ、と連幸は小声で言った。ジェスの手から空になった湯飲みを受け取り、サイドテーブルにそっと置く。そして子供に言って聞かせるように、ゆっくりと優しい口調で語りかけた。
「ジェスさん、それは違いますよ。戒めじゃないです。辛いから、脳は忘れさせようとするんです。あまりにつらすぎる記憶は、ひとの命もおびやかすから。ストレスからくる体の不調を緩和しようとしてるんです。忘れたいのではなく、忘れなくては、と。でも、心はそう感じていない。忘れたいなんて、思わない。命が危険にさらされても構わない。それくらい大切に思っているんですよ」
 ユリアさんのことを。その思い出を。
「そうでしょう?」
 そのことばを聞いた瞬間、ジェスの心に凝っていた闇が粘性を失い砂のように乾き、四散した。胸に吹き込んだ穏やかな風は、闇の残滓を払いのける。突然差し込んだ光に、心が眩暈を起こした。
「あ……」
 まなうらに真っ白な閃光。稲妻に打たれたような衝撃が体を走り抜けた。震える体を自分の手で確かめるように抱き、思わず目をぎゅっと閉じる。
 そうだ。思い出した。忘れていた、何を捜していたのか。
 愛していた。ずっと。ことばにしない俺を、君はよく責めて拗ねていたね。
 愛している。いまも。信じてくれなくても。
 俺から去る君を引き止められなかった。どうしたら引き止められるのか、知らなかった。
 知らないまま、失った。
 ユリア。
 時を戻せないことは、わかっている。だからといってこのままにはできない。たとえ二度、失うことになっても。
 思い出まで、失うことはできない。
 ユリア、ユリア、ユリア……。
 その様子をみていた連幸は、ジェスの肩をぽんと軽くたたいて立ちあがる。
「準備が出来たら、呼んでください。部屋にいますから」
 声さえ出せずに、うつむいたまま連幸の足を見送ったジェスは、ドアが閉められると同時に肩にかけていたタオルを顔に押し当てた。
 そして、ユリアを失って、はじめて泣いたのだった。