第2章 お茶の時間 (6)

 朝食は、昨晩と同じく、充実したものだった。焼き魚と根菜の煮付け。味噌汁の具はとうふと長ネギ。胡瓜の塩もみと卵焼き。バランスのよい食事だ。
 翠燕とのティータイム後、自室に戻る間のなかったジェスは、結局寝癖頭のまま、食卓に着いていた。寝癖をつけたままの者も少なくはないので、さして目立つことはなかった。もっともその割合は十人にひとり程度だ。現在時刻六時三十五分。エリシュシオンでは日の出時刻を午前五時とし、日没を午後五時としている。その間を十三等分して一時間とする。それがテラ標準時間の一時間にほぼ一致する。したがって、季節により多少一時間の長さが異なる。今は初夏なので、テラの時刻とだいたい同じである。とすると、花竜の組織には早起きの者が多い、ということだ。
「体が資本だもん」
 隣で楽しそうに食事をする斐竜が、朝食の内容をそう説明した。おまけのようについている刺身をうれしそうに眺め、
「翠燕、俺たち苦労したかいがあったね」
「異議がある。苦労させられたのは、俺だ」
 珍味中の珍味と名高い「地竜の刺身」を口に運びながら、斐竜は翠燕に話す。
「ね、これさ、城で出したら? 結構いい客寄せになるでしょ。定番メニューの中に入れられたらいいんだけど」
「それを手に入れるために、毎日トカゲ狩りに出る気力があるなら、やってみるがいい。言っておくが、俺はごめんだ」
「やーめたっ」
 ナマを見たから、生では喰えない、と言っていたはずの斐竜は、結局なんの躊躇いもなく育ち盛りに相応しい勢いで食べていた。
 そんなところだろうと小声で言った翠燕に、斐竜が頬張りながら言った。
「だって、美味いんだもん」
「行儀が悪い。食べながらしゃべるな」
 きちんと飲み込め、しっかり噛んでいるのか、こぼれている、箸の持ち方が違う、箸で人を指すんじゃない。
 まるで口うるさい母親のように、翠燕は斐竜を指導している。
「面白いでしょう」
 斐竜らを眺めていたジェスに、向かい側に座る連幸が声をかけた。すっかり着替えている。深いブルーの上下という至ってシンプルな格好だ。あいかわらず美しいが、こうしている連幸を見ると花散里であるときよりも幼く感じられる。まさかティーンエイジャーとも思われないが、さっき会った華やかな美女は、連幸によく似た連幸の姉のような気がした。官能の塊のような花散里が牡丹なら、連幸の清廉な表情は菖蒲のようだ。どちらにしても「花のように美しい」ことに変わりはなかったが、異質な二つの存在を一つ身に宿している彼の、どちらが本来の彼なのか、今のところジェスには判別できなかった。
 それはそうと、翠燕の変わりぶりも素晴らしい。さっきまで一緒にいたのは、この翠燕ではないように思う。斐竜は、翠燕のああいう一面を、知っているのだろうか。
「いつもなのか」
 当人らを前にして聞くこともはばかられる気がして、ジェスはそれだけを連幸に尋ねた。
「そうですね、大概は。……お箸の扱い、お上手ですね」
 戸惑う様子もなく箸を使いこなしているジェスに、連幸が感心した。
「ああ、うん」
 刺身を飲み込みながら、ジェスは頷いた。
「和食が好きなヤツがいてさ。付き合って食べる機会も多かったから、練習した」
「例の、元恋人ですか?」
「そう」
 ジェスの表情が、一瞬にして硬くなる。連幸は気付かないふりをして、にこやかに問い掛けた。
「珍しいですね。WSの方なんでしょう」
「いや。ES系だ」
「なになに、ジェスの彼女? 聞きたい、聞きたい」
 斐竜が耳ざとく会話を聞きつけて、身を乗り出した。テーブルに肘をつくなと言いかけた翠燕の唇にデザートのさくらんぼうを押し当てた斐竜は、うるさい教官の口を塞ぐ事に成功する。おそらくその手段を教えた連幸を翠燕はキッと睨んだが、聡い連幸は反対方向をむいて王虎にお茶をいれていた。斐竜は全身でジェスに問い掛ける。
「どんな人。かわいい? 美人?」
 斐竜の様子がいかにも楽しそうなので、それ以上語るつもりはなかったのに、ジェスはつい応じてしまった。
「まあ、美人だろうな。好みもあるだろうけど」
 のろけてくれるぜ、と聞き耳を立てていたらしい王虎がつぶやき、石涼に注意される。
 斐竜は興味の尽きない様子である。これ以上聞かないでくれよ、というジェスの望みは叶いそうにもない。目を好奇心で輝かせて、少年は問いを放つ。
「ふうん、どんな感じの人?」
「どんなって……」
 言いよどむジェスに、斐竜はたたみかける。
「清楚、とか、艶っぽい、とか、可憐、とか」
「その中では、清楚が一番近いかな。長い黒髪と、濃い灰色の瞳で……翠燕、本当に、中和されているのか」
「時間的には。個人差もある」
「あはは、ジェス、翠燕のお茶飲まされのか」
「飲まされた、とは穏やかでない表現だな。俺は無理強いはしていない」
「好んで飲んだような言い方をしないでくれ!」
 でも。
 どうせ、彼女の容姿や特徴などはデータとして知らせておかなければならないのだから、いいか。
 それに斐竜はかわいいのだ。ジェスの顔を覗き込むようにして、次のことばを待っている。興味津々、だ。
 当然かもしれないな、とジェスは考えた。この殺伐とした環境では、恋を語らう相手など見つかりそうもない。そういえば女性を見かけない。この年頃の少年には、さぞかしサビシイ環境だろう。そう思うと、熱心な斐竜の好奇心に多少答えてやるくらいなんでもないような気がした。
 開き直ってジェスは言った。
「ユリア・アリオール。知ってるだろ」
 その名前に、もりもりと食べていた王虎が食事を中断した。
「うん、連邦一って言われてる、歌姫だよね。姫って言っても、売り物は歌だけの。見たことあるよ。歌も聞いた。きれいな人だよねえ。似てるの?」
「本名は鷲羽由梨子。年齢28歳。出身ES.JAPAN第3植民惑星淑景。四年前から、付き合ってた」
「うそ……知らなかった」
 斐竜は大きな目をますます大きく見開いて、絶句した。
 ユリア・アリオール。広く知れ渡るようになると同時に、多くの人々を魅了した稀代の歌姫である。三月ほど前に、事故で入院、現在は療養中であると、公式には発表されていた。ただ一部には、喉を傷め歌劇界への復帰を危ぶむ声もあった。
「長期療養って……そういうことだったのか」
 斐竜が吐息とともに呟いた。王虎は全身が金物にでもなったように湯飲みを口につけたまま固まっている。翠燕はまったく感知しない様子で、もくもくと食事を続けていた。おおかた、こいつにはそういう話題に対する興味など、かけらもないんだろうと隣に座る青年の顔を見て、ジェスは思った。おおきく息をついた連幸が、軽く二度頷く。
「公には、できませんね。迂闊にもらせば、彼女は常に危険にさらされることになってしまう……ああ、そうか。それが別れ話の原因ですね」
「ああ」
「なんで? どうしてさ」
「つまり、ユリアさんとしては、ジェスさんの恋人であることを隠していることが辛くなってしまったんだ。公表すれば、命の危険にさらされることが分かっているから、ジェスさんに公表する気はない。もちろん、ユリアさんにもそれはわかっているのだけれど、このままずっと日陰の身、……二人の関係においてのことだけれど、そう考えるとそれに絶えつづけることができない、って思われたのでしょうね。もうひとつ、考えられるのは、ジェスさんの仕事かな。危険な仕事に赴いている恋人を、離れて、しかも誰にも相談できずに案じつづけることに、疲れてしまった。相談できないということは、気休めのことばさえ聞けないということだから。……そんな思いをさせてまで隠していたのに、……やりきれないな」
 斐竜と翠燕に語りつつ、ジェスに確認をとる連幸は、敬語と丁寧語と通常のことばを器用に使い分けていた。
 でも、おそらくユリアさんの心は、まだジェスさんの上にありますよ。擁焔の元から奪い返せば、きっと帰ってきます。
「よく、わかるな」
 きっぱりと言い切った連幸に、翠燕が言う。
「俺には全く理解できない」
 理解できない事を、翠燕がさほど残念に感じていないのは明らかだった。おそらく翠燕の興味は叙事詩に描かれる部分で、叙情詩は連幸の担当ということで全くしっかりと解決されているのだ。彼自身の中で。
「……俺にも、さ。わからないまま、立ち去る彼女を見ていた」
 わからない、という一点においてジェスと翠燕は共通する。だが、翠燕が理解しないのに対して、ジェスは理解できなかった点が異なり、その相違は対極にある。ジェスは連幸ほど人心に敏くなく、また敏くない自身を責めていた。
 今更、と思うが、もう二歩早く呼び止めていたら、と考えずにはいられない。
 ジェスがそう言ったとき、王虎がすくっと立ち上がった。立ち上がった勢いで椅子が後ろに吹き飛んだ。背中合わせで食事をしていた運の悪い青年が、椅子の直撃を受け、咳き込んだ。
「おうよ、今更ってもんよ。そういうことはいっぱしの男が考えるもんじゃねえ。男なら、この先を考えるべきだ。クソ擁焔から、歌姫を救い出す! それしかねえ!!」
 そして王虎は、一気にお茶を飲むと、叩きつけるようにテーブルに湯呑みを置いた。対角線上に位置していた翠燕の湯呑みが反動で飛びあがった。こぼれずに済んだのは翠燕がさりげなく手で抑えたからである。王虎は咳き込むような声を立て、その巨体をあちこちにぶつけるのも構わず――運悪くぶつかられた小柄な男が食器もろとも横転したが振り返ることもせず――食堂出口へと突進していった。たった一つの瞳が、すこし潤んでいるようにも見えた。ドアの向こうに姿が消え、廊下を蹴りつけるような足音が遠ざかる。叫び声も複数聞こえたので、廊下でも数人を転がしたに違いない。
 半ば呆気にとられてその光景を見ていたジェスは、振り返ると説明を求めるように周囲を見渡した。
 大きなため息をつきながら、仕方なさそうに石涼が立った。四人分の食器を片付けながら、彼は言う。三人分食べたのはもちろん王虎だ。
「すみませんね。あいつ、歌姫の熱狂的ファンだったんですよ。海賊版でも、正規版でも、一緒だっていうのに、ホンモノがいいんだ、とかで、わざわざ皮かぶって首都まで歌姫のコンサートのパンフレット買いに行ったりしてましたから。パンフレットだけ、ですよ。それならいっそ聞きに行けばいいのに。……何がホンモノなんでしょうかねえ。ま、ひとまず、様子見てきます。勝手に擁焔のところに殴りこまれても、あとの始末が困るんで」
 軽く頭を下げて、石涼は出て行った。出て行きがてら、転んだ男を助けおこして詫びている。マメな男だ。
「かわいそうな王虎」
 これっぽちも同情していない口調で、連幸が言った。くすくすと笑う連幸が、一瞬だけ花散里の艶のある表情を見せた。
「そうだね、ちょっとかわいそうだね」
 斐竜の声の調子も王虎をかわいそうとは思っていない。かろやかな少年の笑い声は耳に心地よく響く。
「ジェスさん、王虎はね、歌姫の幼馴染なんですよ。井筒って、ご存知ですか」
 連幸が驚いた表情のまま、ぼんやりしているジェスに話し掛けた。
「ツツ……?」
「うん。井筒。伊勢物語。歌姫のいろんなコレクション見せて、自慢してた。自分は、こんなだから会いにはいけないけど、あいつが幸せそうにしてる姿を、こうして確認できるのは、うれしいって話してたんだよ」
 ほんの子供のころのことだけど、結婚の約束をしたんだと、照れくさそうに王虎は頭を掻いていた。約束はもう守れないけれど、あいつのためなら、今だって宇宙の果てまで助けに行くって、そう言ってたよ。斐竜は話しながら、王虎の去ったドアをもう一度見る。
 斐竜の眼差しはやわらかく温かい。その鏡鉄鋼のような瞳は、やわらかな光を含むと黒真珠のようにやさしくたおやかに変化する。視線をゆっくりとジェスに戻した斐竜は、蒼ざめたジェスの顔を見て、形のよい眉を少し上げて瞬きをすると、くすりと笑った。
「ジェス、大丈夫、王虎はわかってる。王虎は歌姫を求めない。歌姫の幸せだけを求めてる。歌姫の幸せが、あんたとともに在ることなら、王虎は誰よりもそれを祝福する」
 心配はいらないよ、とジェスの額を、斐竜は指で弾いた。
「だけど」
 言いかけたジェスのことばを連幸の穏やかな微笑が封じた。
「ジェスさん、王虎にとってユリアさんは幸せの象徴なんです。思い出したくない過去の、唯一の幸せな思い出。……それを迂闊にも、擁焔は踏みにじったんですから、はっきり申しあげて、無血交渉は、無理です。一応、試みてはみますが、十中八九、戦争です。構いませんね?」
「……ああ」
 ジェスが答えると、周囲から歓声が上がった。食堂が音の洪水に浸される。
 あまりにも突然の大歓声にジェスは心底驚いて、椅子から滑り落ちそうになった。素早く翠燕がジェスの右腕を掴んで支える。
 斐竜が飛び上がって叫んだ。
「依頼者が来たぞ。擁焔をぶっ潰す!!」
 ひときわ大きな歓声が巻き起こる。連幸が身を乗り出し、テーブル越しにジェスの耳元に口を近づけた。そうしないと何を言っているのか聞き取れない騒ぎだ。
「待っていたんですよ。擁を叩きのめす依頼を。俺たちはずっと、ね」
 同業者同士の、仕事の絡まない戦闘は、この世界での背徳行為。これを冒すと、ここではやっていけなくなる。表の世界に戻る事も出来ない以上、それは死を意味するのだ、と翠燕が説明してくれた。
「同じテリトリーを共有するには、向かない連中だ」
「そう。あいつらのせいで、迷惑してたんだ。もう、何人も犠牲になってきた」
 歓声の潮が引いてゆく。気がつくと食堂にいたほとんどの人間が消えている。狂喜しながら、それぞれの持ち場に戻ったのだろう。一刻も早くいけ好かない擁焔とその手下どもを叩きのめしたくて。
「うれしいな。ジェスの話を聞いたとき、あ、もしかして、って思ったけど、王虎がキメてくれた」
「俺は、ダシにされた、ってことか。それなら少しはマケてくれよな。まさか、超過料金(わりまし)はなしだぜ?」
 ジェスが苦笑した。苦笑なのに、めずらしく痛々しさを感じない笑顔だった。
「実費マイナス俺たちの憂さ晴らしプラス王虎のヤケ酒代、かな」
「フェイ、それじゃジェスさんが気の毒だよ。王虎はウワバミも潰す大酒呑みなんだから」
 食事を再開した三人はひとしきり王虎をネタに笑っていたが。
「それほど熱くはないな」
 それまで淡々と食事を続けていた翠燕が、お茶を一口飲んで、不意にそうつぶやいた。湯呑みの中の緑茶を、じっと見つめて何か考え込んでいる。茶柱を探すような人間ではない事はジェスの目にも明らかだったので、何のために彼がそれを見ているのか、三人は同時に首を傾げた。
 数秒の沈黙のあと、斐竜がお茶の温度を確かめるように一口飲んで、翠燕に言う。
「熱くないよ。ぬるくもないけど」
 斐竜はもういちど首を反対側に傾げる。連幸は何事か思い当たったらしく、小さく声を上げたが成り行きを見守るように、斐竜と翠燕を見つめたまま黙っていた。
「冷めちゃったのかな。もっと熱いほうが良かった?」
 熱いの淹れようか、と腰を浮かす斐竜を左手で制して、翠燕は右手の湯飲みを見、王虎の去ったドアを見た。その様子に、連幸の口元が微妙に震える。期待に満ちた眼差しで一心に翠燕を見つめる連幸と、見つめられている翠燕を見比べながら、ジェスは斐竜と視線をかわし最後にもう一度翠燕を見る。
 一呼吸おいた後、翠燕は注目の中でつぶやいた。
「……泣くほど熱いかと思ったんだが」
 一瞬の間をおいて、連幸がはじけるように爆笑し、ジェスはちょうど口に含んだお茶を飲み込むために鼻をつまんだ。一部が気管に入ったのか、笑いながら咳き込んでいる。苦しそうだ。
 斐竜はもういちど湯飲みを口元に持っていったところだったので、勢いよく吹き出した拍子にその三分の一を正面にいた翠燕にかけてしまった。泣くほど熱くなかったのは、幸いだった。