第2章 お茶の時間 (5)

 首がねじ切れた!?
 ぞっとしたようにジェスが首を一撫でする。首から肩にかけて一気に体温が下がってしまった。ひんやりとした空気が肩の上にとどまる。思わずぶるっと首をふって、ジェスはその冷気を払う。
「あのときは大型飛空挺の制圧と、さらわれた人質の奪還が目的だった。こちらも船に乗り込んでいたから、重火器が使えない。結果、非常にクラシカルなミッションになった。手間も、犠牲も大きいだろうと覚悟していたんだが、王虎(ワンフー)の一撃で、片付いてしまった」
 さもあろう。
 あらためてあいづちをうつ気にもなれず、ジェスはため息をついた。
「王虎自身も、改造後の初陣だったために、まさかそういうことになるとは思っていなかったようだが、以来、首落としの王虎という二つ名が定着した。ハーフ・ドールよりはよほど気が利いている」
 顎の骨と金属の拳がぶつかる鈍く短い音。刹那、幻のように頭部が消え、事態の理解が追いつく前に船室の奥のほうで、何か重いものが壁に勢いよくぶつかってはねかえり、床に転がる音が聞こえた。一瞬の間をおいて、首が在った場所から赤い飛沫が間歇泉のように吹き上がる。戦闘態勢に入っていた全員の視線が、それに固定される。臨戦状態は一瞬にして解除された。注目の最中、残った体は二秒ほど静止し、踏鞴を踏み、平衡を失い、左回りに四分の三回転しながら倒れた。スプリンクラーのようだったと目撃者全員が一致する証言を残している。当然、部屋中が、真っ赤になった。全員が鮮血のシャワーを浴びた。特に王虎は頭のてっぺんからつま先まで隈なく染まった。真っ赤な空間の中、漂白された時間が三秒。対峙する両者の間に、奇妙な事にまるで血に汚れていない首がゆっくりと転がってきた。異常な青白さが印象的だった。運悪く、物言いたげなクビと目が合ってしまった石涼が小さくうめいた。一方、王虎は鮮血を滴らせながら何事もなかったかのように泰然と佇んでいた、と言われているが、おそらくは何が起きたのか、誰よりも解っていなかったのだ。茫然自失、が正しいだろう。不本意な事に、俺でさえ何が起きたのか理解するまでに数秒を要した、と翠燕は言う。
 そんな中で、いち早く正気を取り戻した連幸が、敵対する者たちに啖呵をきった。玲瓏と響くよい声で。
「面白いじゃない。王虎。ねえ、もう一つ、やってみせてよ?」
 白磁のような肌に飛び散った鮮血が、連幸の美しさをひとさらに際立たせた。場にそぐわない穏やかな微笑が、恐怖を一層煽った。本当に、心底楽しそうに笑う連幸に、もしや本気なのかと背筋に寒気が走ったことを覚えている。咽返るようなにおいの中で、敵は全員が投降。この戦闘で死亡したのは、運悪く王虎に飛び掛ったその男だけだった。もう一つ、幸運だったのは、そいつが病気もちではなかったことだな、と翠燕は淡々と語った。
「石涼と王虎はトレーニングの一環として、一対一での手合わせを日課としている。お互いの弱点を正しく認識するために。もちろん、彼らにとっては多少の娯楽も兼ねている。王虎の攻撃をまともに受けたら石涼も無事ではすまないだろう。しかし、王虎の義眼では石涼の動きを捉えることが難しい。もっとも石涼に攻撃を当てられるのは、今のところ三人だけ……、と、朝食前に話す話題ではなかったか」
 蒼白になっているジェスの表情を見て、翠燕はわずかに眉をひそめた。
「どうした」
 ジェスはストップモーションでもかけたように、口元を抑え、瞳を硬く閉じて押し黙っていた。時折、しゃくりあげるように体が震えている。いや、しゃくりあげているのではない。こみ上げる吐き気を堪えているのだ。食道を逆流する胃液がジェスの咽喉を焼く。擦れた声でジェスはかろうじて返事をした。
「……大丈夫。平気。なんでもない」
 自らに言い聞かせるようなジェスのことばに、翠燕は重ねて聞いた。
「ハンターなんだろう。こんな話程度に貧血を起こしていて、仕事がよく務まったな」
「だから、クビにされたんだよ」
 彼らしくない荒んだ口調とあらあらしい語気に、翠燕が目を見張った。もちろん、極わずかに。傍目には、ゆっくりと瞬きをした以上には見えない。しかしジェス自身は、自らの語気に翠燕以上に驚いた様子で目を丸くしていた。  しばらくの沈黙の後、ジェスが少し笑いながら言う。
「……悪い。君にあたっても、しかたがない」
「いや」
「いいさ。当然の疑問だ。だけど正直なところ、俺にも、よく理解できないんだ」
 ジェスは肩をすくめると、もういちど笑った。無理をしている事が、ありありと見て取れる。
 歩きながらしゃべりはじめたジェスの口調は、もう、いつもどおり、おっとりのんびりとしていたが、声の震えは隠せなかった。
 別れ話をしたこと、引き止めることもできずぼんやりと彼女の背中を見送ったこと、十歩と離れないうちに彼女が狙撃されたこと、駆け寄る間もなく彼女は崩れ落ちたこと。
 それらを聞きながら、翠燕はただ黙っていた。かけることばが見つからないというよりは、これといった感想がない、という様子だった。頷く事さえせず、しかし耳を傾ける翠燕に、ジェスは語りつづけた。話すことで、気持ちを落ち着けようとしているようだった。
「倒れた彼女に駆け寄って抱き起こした。抱いている手が血で滑った。右の鎖骨のすぐ上から、背中の左側に弾は貫通してた。……上からの狙撃だと言う事はすぐにわかった。致命傷だと、直感した。心臓を、通過している、って。信じたくなかった。だから、小さな声で、懸命に俺を呼び止める彼女を置き去りにして、俺は犯人を追った。……怒りや、憎しみから人を殺したのは、初めてだった。そして彼女のもとへもどったときには、……離れた時間は、5分もなかったと思う。でも、もう、……意識はなかったんだ」
 搬送された病院から彼女が姿を消したのは、ジェスがAG’の本部で裁判準備のため、謹慎処分を受けていたときだった。
「それを知って、脱走した。だから、隠してたけど、今の俺は逃亡中の殺人事件容疑者、ってわけだ」
「めずらしいことではない。ここでは」
 翠燕は部屋のドアをあけながら言った。ジェスを振り返りもせず放たれたそれは事実を告げることばであって、慰めや労わりの響きは微塵もなかった。ありきたりな事、同情に値するような特別な事ではないのだという翠燕の口調に、ジェスはかえって救われたような気分になった。自分だけが特異なのではないといことが、安心感につながった。直接の救いにはならなくとも、孤立感がやわらぐだけで不思議なことに多少落ち着くことができた。乱れていた動悸が徐々に治まっていく。
 王虎は、あんたもここに居着けばいい、と言った。彼もおそらくなんらかの事情で、それまでの居場所を失って、ここへきたのだろう。きっとここにはそうした過去を持つものが多いのだ。
「そうだね。ありきたりな話だ。……戦うことができなくなっていると自覚したのは、脱走してすぐだった。俺を追う元同僚の肩を撃った。飛び散った血に、吐き気がこみ上げた。眩暈がした。……血が、怖い。命を奪うことが、恐ろしい。獲物を仕留められなくなったハンターに存在価値なんて、ない。もっとも今回は、俺が獲物だけどな。それからは逃げる一方さ。それでもまだ、司法官の手に引き渡されるわけにはいかなかったからね」
 昨晩と同じソファに腰を下ろしたジェスは、両腕をソファの背もたれにかけて天井を仰いだ。
 そんなジェスにはかまわず、翠燕は無駄のない動きで部屋の奥の小さなキッチンへと向かう。歩数さえも考えて踏み出しているような印象をあたえる整然とした歩み方だった。水の音、そして食器が触れ合いかすかに鳴る。
 湯を沸かす音だけが部屋を満たした。心地よいノイズだ、と目を閉じてジェスは思う。
 実際、この音を聞くときは常に彼女が傍にいた。暖かく潤った時間だった。それが、このさきもずっと変わらず、続いていくものだと信じていた。いや、失われる可能性さえ疑った事はなかったのだ。俺は。今になって思えば、何という思い上がりだったことか。
 回顧の中に沈み込んでゆくジェスの意識を現実に引き戻したのは、翠燕の端麗な声だった。まるで霧雨のように、冷たく、しかしやわらかく染み込んでくる。声の静けさと冷たさが、胸のあたりで凝る熱を霧散させた。
「花街で、花紫を助けたんだろう」
「喧嘩と、戦闘はちがうさ」
「正しいな」
 翠燕はジェスの自嘲をさらりと受け流し、思いの外、穏やかな動きで香りのよいお茶を差し出した。
 受け取った熱い緑茶をすすり、すこし気分が落ち着いたのか、ジェスの表情から緊張が消えた。ジェスが大きく息を吸い、その倍の時間をかけて吸った息を吐ききったとき、翠燕はゆっくりと静かに問い掛けた。
「ところで」
「なに」
「俺たちを雇うのは、そのためか」
 自分に代わって、戦う者として、雇うのか。おまえができない殺戮を、俺たちに肩代わりさせるのか。
 ことばとして発せられなかった問いを、ジェスは感じ取った。そして、生真面目に、正直に答えた。
「戦えない俺と、それでも共同戦線を張ってくれるヤツをさがしてたのさ」
 それは、おそらく、相当の難問だったろうな、と翠燕がつぶやいた。
 代理戦闘ならともかく――それは、依頼にかこつけて暴れまわりたい輩はどの組織にも少なくないので――足手まといを承知で、今のジェスと共に戦う事を承知できる者は多くない。戦えない者が戦場に赴けば、自らの命さえも危険にさらされる。
「やっぱりだめ、か」
 ため息とともに、ジェスが肩の力を抜いて、いや、がっくりと肩を落として、という表現のほうがより正確だろうか。彼はソファに身を沈めた。翠燕はジェスの様子を眺めながら、言った。口元がわずかに笑みを浮かべている。
「難問だったろう、といったんだ」
 もう一度繰り返した翠燕のことばが、過去形である、と言うことに気付き、ジェスは勢いよく身を起こした。
「引き受けてもらえるのか」
「この仕事を請ける、とフェイが決めた。花竜の決めた事に、否を唱える者は、ここにはいない」
 フェイはあんたに協力する、と言った。だから、作戦の主体はあんた自身だ。俺たちはそれをサポートするだけにすぎない。そう言いながら翠燕は立ち上がると先ほどとは別の茶葉で、新たにお茶を点てなおした。
「俺が確認したかったのは、あんたの言う事が真実かどうか、だ。たった一人で叛乱軍二個師団を壊滅させたあんたが、どうして他人に協力を求めるのか、疑問に思っても当然だろう」
 花竜を捕らえるための罠という可能性も否定できなかった、と翠燕は言う。
「そうだね。で、俺の回答は合格点に達したってことか」
「不合格の場合、俺はあんたを始末するつもりだった。解毒剤だ、飲んでおけ」
 もう一つ渡された小さな湯のみを見、テーブルの上の先ほど飲んだ湯のみを見、翠燕の顔を見てジェスは口を二度、開閉した。唇は動いたが、声もことばも出てこなかった。
「心配はいらない、死に到るような代物ではない。だが、そのまま朝食に向かえば尋ねられたことにすべて正直に答えることになるだろう」
 花紫との睦言まで、な。
 自白剤効果のあるその飲み物を指して、翠燕は説明した。緊張を解く薬効があり、同時に警戒心や疑念を静める効果もある。精神的な弛緩を目的に調合した生薬、または漢方、WS風に言うならチャイニーズ・ハーブ。リラックス効果は極めて高く、即効性があり、常習性はなく、副作用も起こりにくく、また体内に残留しない素晴らしい「お茶」だ、と。
「……悪党!」
 年下の青年を、半ば以上本気でジェスは批難した。批難をなんとも思わない――こういうところは、翠燕と斐竜はとてもよく似ている――翠燕は逆にジェスを諭す口調で言った。
「あたりまえだ。俺を誰だと思っている。泣く子も黙る花竜の副官だぞ」
「花竜の決定に否とは言わないんじゃなかったのか」
「ああ、言わない」
 さらりと聞き流してしまいそうなことばの陰に、もうひとつのことばが隠れている。
 言わずに、片付ける。
「ネオ・キャメロットの会長も、君が処理したんだろうっ」
 負け惜しみのように響く厭味。言った自分で悲しくなったジェスに、翠燕が美しい笑顔を見せた。惚れ惚れするような微笑みに、何故だかジェスはぞっとする。
「……まさか、本当に」
「さて。都合よく死んでくれたことには、……感謝してもいいだろう……」
 視線を伏せ、口の端にうっすらと、しかし凄絶な笑みを浮かべる翠燕に、言い返すことも出来ず。
 横一文字に引き結んだ唇を、ジェスは震わせる。舌打ちとともにぎゅっと目を瞑り、渡された解毒剤(おちゃ)を一気にあおった。
 熱い、香りの良いお茶は、ジェスの予想を裏切って美味しかった。