第2章 お茶の時間 (4)

 石涼と、巨漢、である。朝食前の散歩に行くのだ、と話す石涼がまるで子供に見えた。だが、石涼が成人男性の標準的サイズなのだ。
 巨漢の名は王虎。花散里が、別の問題があると言っていたとおり、圧倒的な身体サイズだった。外見から年齢を推し測るのは難しいが、三十を幾つも超えてはないだろう。
「石涼は、昨日あったな。ジェス、王虎だ。石涼とおなじくうちの『優秀な』アタッカーだ」
「そちらさんが、ハンターJさんで?」
 外見によく似合う穏やかからぬ笑顔と、外見に相応しい大声で彼は挨拶した。なるほど。これでは素人客は仰天する。折衝向きでないことは、一見しただけのジェスにもわかった。話し合いという名の威嚇になってしまうのは明白だ。
 幸いにもジェスは素人ではなかったので、かろうじて仰天することなく挨拶を返す事ができた。
「もと、ね。今は失業中さ。よろしく、王虎」
 失業中、というジェスのことばを聞き、王虎は顔を輝かせた。ジェスが差し出した右手をがっしりと握り、上下に振りながら彼は言う。
「そりゃ、いい。実にすばらしい」
 そして大きな体に大きな声、大きな口で豪快に王虎は笑った。意外にも張りと響きのある良い声だったが、如何せんボリュームが大きすぎる。耳から入った王虎の声は頭蓋内で共鳴する。彼は笑いながらジェスの背中をバシバシと、その大きな手のひらで遠慮なくたたいた。たまらず、ジェスがよろめく。背を叩かれたために肺の空気までがたたき出されてしまったのか、ジェスは短く咳き込んだのだが、王虎は気にする様子もなく、今度はジェスの肩を両手で掴んで数回前後に振った。揺すられる肩の動きに少し遅れて、ジェスの頭は前後に激しく揺れた。眩暈はもちろんむち打ちにでもなりそうな勢いだった。
 昨日の打身が突然痛くなった。やめてくれ、と言おうにも、口を開けば十中八九舌を噛む。されるがままになっているしかないジェスのグラススコープが揺らされている頭の勢いに吹き飛んだ。
 大らかな王虎は、全くそれに気付く様子もなく、にこやかに言う。
「なあに、いざとなりゃ、あんたもここに居着けばいいだけのことさ。あんたほどの男なら、大歓迎だ」
 わーっはっはっはっはっははははははは。
 大きな声で心地よく笑いながら石涼に連れられて、王虎は立ち去った。
 石涼が、廊下を曲がるときに申し訳なさそうに、ジェスを見て、頭を下げた。
 ふたりが視界から消えた後も、しばらく王虎の笑い声が廊下に響いていた。
「あれが、王虎だ」
 二人が立ち去った方を見て、翠燕が言う。
「ほかに解説の仕様がない」
 振り回されて眩暈を起こしたジェスは瞼を閉じ眉間に指を当てて黙っていた。突然のサイクロンに巻き込まれたような気分だった。
「大丈夫か」
 足元に落ちたグラススコープを拾ってやりながら、翠燕がジェスの様子をうかがった。
「や、大丈夫。ああ、ありがとう」
 スコープを受け取りながら、ジェスは焦点の定まらない様子で答える。
 何度かまばたきをした後、受け取ったグラススコープを掛けようとして、ジェスは手を止めた。
「まあ、いいか。掛けなくても」
 言いながらジャケットの胸ポケットに引っ掛ける。
「傷でもついたか」
「いや。着ける必要ないかな、と思ってね」
 ジェスのスコープは失われた右目の視力を補うためのものではあるが、それ以上に、顔を隠す事を目的としたデザインだった。
「ああ。ここでは、必要ないな。皆が、あんたの正体を知っている」
 翠燕が返した応えは、ジェスの言った意味と若干違っていた。
「まあ、そうなんだけど」
 どう続けたものか、と考え込むジェスに翠燕は少し考えてから言った。
「傷痕の心配なら、そう深刻になるほどのものでもない。その程度なら、あんたにとっては装飾品だ」
 ジェスの傷跡は、斐竜や連幸が息を呑んだほどに凄まじい。その傷跡を装飾品と言い切る感覚は、ジェスには無いものだった。半ば憮然としながら返すことばを探すジェスに、翠燕は重ねていった。
「それだけの傷が似合う男は、少ない」
 俺は、無理だ、と翠燕は続けた。
 どうやら翠燕は、ジェスの傷を賞賛しているらしいが。
 傷の理由を知ったら、鼻で笑うだろうな。
 絶対に翠燕にだけは教えない、と決心するジェスに、そうとは知らず翠燕はことばを継いだ。
「常々、王虎を見ているから、余計に」
 王虎の顔はその六割が合金だった。額半ばから、左目、左頬、左の顎の上、耳の後ろまでが、鋼に覆われていた。ジェスの肩を掴んで揺すぶった左手も、義手だった。きっと左肩から、腕全体が義手だろう。
「腕、だけじゃない。左側はほとんどが人造だ。以前はハーフ・ドールと呼ばれていたな。お人形(ドール)にしては、凄まじい」
 ドールというのは、体の一部を人造物化した者に対する蔑称である。古典的表現で著すならばサイボーグである。なにゆえその表現が廃れたかと言うと、サイバネティクスが主流ではなくなったからだ。当人の細胞を未分化の状態にまで退化させ、必要な部位を造りだす技術が確立して以来、不自然で不自由な電子機器の代替品などに頼る必要はなくなった。したがって、この多分に蔑視を含む隠語は隠語として機能しなくなり、ゆえに新しい、しかし同じように蔑称的表現が生み出されたのである。
 事故や病で失われた体機能を回復するために人造の臓器や四肢に付け替えることは、もうずっと以前から普通に行われる医療だった。そして偏見も、ずっと以前から存在している。なぜならば不幸にして体機能を失う人の多くは危険作業従事者であり、そういった人々の大多数は貧しい境遇にあったためだ。擬似生体での再生ができなかった者などは、特に差別の対象になっている。
 歩きながら、自然、話題は王虎らのことになる。
「散歩とは言っていたが、手合わせでもするつもりなんだろう。石涼もああ見えて、なかなか好戦的だからな」
「喧嘩か?」
「いや。食前の軽い運動だ」
「ふうん。ところで、王虎のアレはいったいどうして、あんな事に?」
「さあな。はじめてあったとき、既にああだった」
 それで疑問に思わないのが翠燕だ。通常なら、聞けないまでも理由が気になるだろう。しかし彼は、王虎が生身でない事を認識していれば充分、と、その理由を問うことなど考えもしない(事によると理由があることにさえ思い至らないのか)。冷たいようにも感じられるが、ある意味では逆に、あるがままの当人を受け入れることができる大器ということなのだろう。おそらくジェスの傷に関しても、視力視界に欠損あり、という情報のみを価値をもつ事実として認識しているのだ。
「ふうん、そうか。だけど、もう少し、生っぽく整えられなかったものかな。まあ、たしかに生身よりはあのほうが職業柄勝手のいいことも多いんだろうけどさ。それにしても凄くないか」
 大器でない自覚のあるジェスは遠慮せずに好奇心に従った。何事も知らないよりは知っているほうがよい。
「ああ、それなら知っている」
 翠燕は履歴書でも読み上げるような口調で、経緯を説明した。
「俺が初めにあったときは、人工皮膚に覆われていて、一見、生身だった。しかし度重なる戦闘の都度、剥がれる。上っ面が」
 生皮によく似た人工の皮膚を顔からぶら下げながら、豪快に笑いながら敵陣に突撃してゆく王虎を想像して、ジェスは吹き出した。迫力満点だが、同時に滑稽だ。
 笑っているジェスに、翠燕は解説を続けた。
「それで、ある日、もう皮はいらない。そのかわり、もっと丈夫な素材に代えて欲しい、と」
 医務室を訪れたらしい。
 体裁、という無体な制約からはなたれて狂喜した医療スタッフ、整備技師兼任たちは、頑丈さとその機能性、そして自らの技術の可能性のみを追及し、探求し、試行錯誤の結果、およそ半年後に作品は完成した。本人の希望どおり、とにかく丈夫なものだった。理論上では、地対空ミサイルが直撃しても耐えられるはずである。ただし、生身部分については保証外。
 外見をまるで考慮に入れなかった割には、王虎の容貌はさして見苦しくはならなかった。舞台の上のファントム(オペラ座の怪人)のように。
「言うなれば、機能美だな」
 翠燕の評に要約される王虎の姿は、見る者に驚きをあたえても、嫌悪感はあたえない。もっとも、あの姿を戦場で、敵対する者の視点から見つめた場合にも、同じことが言えるとは思えないが。
 ジェスはもう一度、戦場の王虎を想像した。
「あの腕で殴られたりしたら、痛いだろうな」
 何気なく発言しただけで、ジェスは解答など期待してはいなかった。しかし。
「……どうかな。痛みを感じたんだろうか」
 ぽつりとつぶやいた翠燕の応えに、ジェスはゆっくりと隻眼を見開き、ゆっくりと翠燕に視線を当てた。
 ようするに、殴られたら痛みなど感じる余裕はない、ということで、かつ、過去にそういう経験をした者がいた、ということだ。
「殴ったのは、顔のこの辺りだったんだが」
 言いながら翠燕は立ち止まりジェスの右顎の辺りに、拳を当てた。顎の辺りを殴られると衝撃が頭蓋内に直接伝わるため、痛みはほとんど感じない。感じる前に、ひっくりかえる。さぞ強いパンチだったのだろうと、ジェスが頷くと、翠燕は拳を離し、ことばを続けた。
「頭部が消えた。噴出す鮮血を見ても、即座には事態が理解できなかった。首がねじ切れたのだとは」