第2章 お茶の時間 (3)

 嫌がらせ、である。もちろん、翠燕に対する。うれしそうな花散里の様子を見、苦々しげな表情の翠燕を見、斐竜は少しの間どうしたものか考えたようだったが、二人の好きなようにさせておくことに決めたようで、おとなしく花散里に抱きかかえられている。
「あら、どうして?」
 挑発的な笑顔を翠燕に向けた花散里は、おとなしい斐竜をますます抱きしめる。比例するように表情をさらに硬くした翠燕は、感情を理性でねじ伏せて、努めて平静にことばを発した。口中の苦虫が潰れる音が聞こえたような表情だった。
「昨夜は、城から戻った直後だったから大目に見たが、今日、その格好でいる必要はない」
 花散里は今朝も美しい。白磁に一滴、薔薇の雫を溶かしたような頬。長いまつげが影を落とす濡れたような瞳。清流を思わせる白金の髪。何度見ても、その度に感嘆するだろう。今日のお召し物は、真紅のチャイナドレス。ミモレ丈。ただし脚の付け根が見えそうな深いスリット入り。キャップスリーブから見える腕は、細くしなやかでやわらかそうだった。実はこの美女が女性でないことを知っていてさえ、見入ってしまう。
 花散里は斐竜を離さない。素敵でしょ、と同意を求められた斐竜は、素直に頷いた。花散里の正体さえ忘れてしまえば、それは真実である。正体を知っていてさえ、同意したくなるのだから。
「どこかおかしいかしら」
「その髪、その服、その化粧。全部だ」
 翠燕は見るもおぞましいかのような視線を花散里になげかける。いや、本当に嫌がっている。体までもが、花散里に対し斜め六十度。正視に堪えない、と彼の全身が表現していた。目をまあるく見開いた花散里が、口元に笑みを浮かべたまま、声だけは残念そうに言う。
「あら、お気に召しませんでした?」
「今、すぐに、改めろ」
「ここで? そういうことは然るべき手順とお作法があるでしょう。でも、わたくし、あなたとはちょっと今更な気がしないでもないんですけど」
「そうじゃない! ……すぐに行け。早く行け。即刻、行って着替えてこい」
 にべもなく言い放つ翠燕に花散里はひどく傷ついたような表情を浮かべる。あくまでも浮かべているだけである。
 このままでいけば、不毛な舌戦が繰り広げられるのは必至だった。おとなしく抱っこされているのにも、少し飽きてきたのだろう、どうしようか、というように斐竜がジェスを見る。ジェスはもう少しこの観劇を楽しみたかったのだが、放っておけば花散里が翠燕をからかう事に満足するまで続きそうだった。ジェスは斐竜に軽く頷くと言った。
「べつに、いいじゃないか」
 唐突に口をはさんだジェスに、二人の視線が集中した。二対三色の視線がジェスの隻眼に注がれる。迫力に気を呑まれそうに感じながらも、かろうじて発言に成功する。
「見て不愉快になる、てんならともかく、似合ってるし。かまわんと思うが、俺は」
「愉快、不愉快は問題ではない。……ほう。ハンター殿はこういうのが、お好みだ、と」
 花散里を庇う形になったジェスに、翠燕の矛先が向く。味方を得たり、と花散里は得意げに胸を張る。斐竜が花散里の緩んだ腕をそっとくぐって、ジェスの隣に立った。成り行きを楽しむ斐竜の視線を、傷ついた右頬に受けながら、ジェスは翠燕に言った。
 大袈裟に肩をすぼめて。
「ああ、そうか。それで君は花散里にみんなの視線が集まるのはイヤだ、と。そうだね、花散里はきれいだからなあ。独り占めしたい気持ちも、まあ、わからんでもないよ。おっと、そうむくれるんじゃない。ま、俺はそれでも恋の相手は女性のほうがいいし、ここは謹んで彼を君に譲ろう」
 どうぞ、と花散里の背をかるく押し、翠燕に寄り添わせたジェスに、斐竜が喝采する。
 花散里と翠燕は互いの顔を見、同時に叛けた。翠燕の苦虫は1ダースに増殖し、どれもこれもが潰れている。唾と一緒に吐き出してしまいたいだろうに、彼の行動体系の中に“唾棄する”という項目はないようで、ただ苦虫を味わうしかない。一方、花散里は翠燕の様子を瞳の端で捕らえながら、なんとも艶やかに、かつひっそりと笑った。
「連幸、聞いてもいいか」
 ジェスは意識的にあえて連幸と呼び、
「これは、自前? それとも、クッション?」
 胸のふくらみを指して聞く。いっそ触ってもいいか、とも思ったが、万が一にも自前だったときの事を考えて、ジェスは指でさすだけに留めた。花散里が何か言おうとして、艶っぽい唇を開いたが、結局ことばを飲み込んでしまった。小さくため息をつく。
「……まさか。そういう笑えない冗談はやめてください、ディーンさん」
 花散里から連幸に瞬時に変化した彼は、やや、げんなりした顔で空を仰ぎつつ答えた。
「花竜後宮は、うちの大切な収入源であると同時に諜報部も兼ねてるんです。ただ、いかにも諜報活動してます、ってわかっちゃったら、効果は激減どころかマイナスでしょう? ですからこうして、花柳に溶け込める格好で、かつ花柳の仕事もおろそかにはしないでやっているんです。念のため申しあげておきますが、俺の花柳での主な仕事は、女衒……つまり、姫の買い付けと、教育ですから。それと、俺と彼女が同一人物っていうことは外部には内緒なので、この姿のときは連幸とは呼ばないで下さいね」
「見ろ、誤解されるじゃないか」
 翠燕がここぞとばかりに連幸を叱り付けた。
「とにかく、あらぬ疑いをかけられる前に、着替えて来い」
「わかった。着替えてくる。……それじゃあ、失礼します、ディーンさん。朝食のときに、また」

 連幸と斐竜の後姿を見送って――斐竜は連幸に指摘されるまで、今朝の食事当番のことを忘れていたらしい――ジェスと翠燕は昨晩の部屋に向かう。日の出から四十分。気温は急速に上昇し、中庭はくつろぐには不適当な環境になりつつあった。
「ボスまで食事当番?」
 余程のことがない限りは、と翠燕はそれを肯定した。
「賄人を専任で雇うような余裕はない。小さな組織だからな。総勢200人足らず」
 塵一つ落ちていない廊下は天然の大理石で出来ていた。聞けば食事当番のほかに掃除当番もあるそうで、全員が平等に担当するらしい。よく磨きこんである。翠燕のすらりと伸びたきれいな足が床に映りこんでいる。
「もともとここは移民中期の都市の廃墟だ。地上の環境が居住に適さなくなってきた頃の都市は、こうしてほとんどが地下に建設されている。同時にE、W両勢力の武力衝突が激しくなった時期と重なるため、軍事基地としての利用も可能なよう、整備されている。長期の不手入れで無事に残っている個所は少ないが、我々が不自由なく生活できるには充分の機能が活きている。しかもテラ・システムが適応される以前のシステムが根幹だ。これ以上の安全はない。もっとも再利用前に、少々いじらせてもらったがな。せっかく谷にいるのに、テラに監視されるのでは意味が無いだろう」
「って、それは、ここは完全にAGから独立してるってことか?」
「いつ何のきまぐれで、一掃されないとも限らない。そんな生活を甘受できるなら、ここで暮らす必要は無い。なんだ、心細くなったのか?」
 心細い、そのとおり。
 ジェスは初めて、とんでもないところに来てしまったという感想を抱いた。今までの仕事でも、辺境と呼ばれる地に赴いた事が何度もある。暗黒街にもターゲットを追って踏み込んだことも少なくない。しかし、マザー・テラの保護の範囲外の場所などなかったのだ。どこであろうと、テラの目が届く。これはAG内の必要最低条件であったはずだ。現にエリシュシオンの谷も、AG’のデータファイルにある。AG’のデータにあるということは、テラが知っていることだと思っていた。
 ジェスがそう言うと、翠燕は呆れたような眼差しを向けた。
 しばしの沈黙のあと、翠燕はふっと短く息を吐く。
「ああ、確かにテラはエリシュシオンの谷に罪人共が固まっている事を知っている。さて、出題だが、ここに何人潜んでいるか知っているか」
「正確には不明だがおよそ……」
 答えかけたジェスを右手で軽く制した翠燕は言う。
「そう、ここには正確に把握できない数の人間がいる。しかもその数は常に変動している。テラの管理の網をくぐる事は難しくない。まあ、ゴミ溜めのことなどテラにしても、さして気に止めてはいないのだろうな。もっとも、花竜の本拠地以外は、少なからずテラの監視下にある。したがって花竜という組織の存在をテラは知っているだろう。しかし、その実態は掴んでいない。テラを不愉快にさせるような事態を引き起こしさえしなければ、彼女も花竜の実態を掴むなどと面倒で利益の少ない事に手を出しはしない。実態を掴んだところで、所詮ゴロツキの集まりだ」
 愛想などかけらもない口調で、翠燕はジェスに解説した。その他、応接間までの道すがら設備や組織規模の簡単な説明をしてくれたのだが、客人を案内するというよりは、囚人を連行する看守のような口ぶりだった。それでも昨晩ジェスの正体を知ったときのような、とげとげしさは感じられない。それなりに客人として接しているようだ。ようするに、翠燕の無愛想な口調は意識しての事ではないらしいので、ジェスも気にしないことにした。
「朝食後は、白王獅子を回収に行かなくてはならない。悪いがあんたとの交渉は午後からになる」
 やはりこれも申し訳ないとはまるで思っていないような口ぶりと表情だったが、あえて断りを入れるのだから、全く悪いと思っていないわけではなさそうだ。
 斐竜の言動はあまりにもおおらか過ぎて、かえって本心が掴みにくいのだが――天然なのか、演技なのか。おそらく何かを考えての言動ではないのだろうが――翠燕の言動から本心を掴むにはおおらかさと豊かな想像力が必須だな、とジェスは思った。
「構わんさ。どうせスケジュールはがら空きなんだ」
 予定がないのか、あれの奪還のみが予定のすべてなのか、判断は難しい。そのことに気がついてジェスはすっかり癖になってしまった苦笑いを一人浮かべた。翠燕は笑い声ともため息ともつかぬジェスの声を聞き、ちらりと視線を投げかけたが、苦笑の理由を問わなかった。
 問いかけのない事に、安堵と物足りなさを感じながらジェスは隣を歩く翠燕の横顔を見た。
 李翠燕という人物を見て、ジェスが感じるのは精巧な細工物という印象だ。整った容貌も、理路整然とした物言いも、無駄も隙もない動作も、鉄壁のポーカーフェイスも、どれ一つとってみても彼には人間の臭みがなかった。同時に、静寂をしか感じさせない彼の気配は命の息吹を極限まで抑えたものでもある。唯一、斐竜や連幸と共にいるときだけ、時折、わずかに表情らしきものが窺えるが、それさえも微々たるものでしかない。もしかすると、感情を表情や身振りで表現するエネルギーを、無駄、と考えているのかもしれない。それゆえに、彼を前にすると、肖像画や彫刻を見て、あれこれと想像するような不可思議な気分を味わうことになる。
「なんだ」
 ジェスの視線に気付いた翠燕が、あいかわらず表情を動かすことなく言った。翠燕は視線を話す相手の目に据える。ES文化圏にはめずらしい行動だ。極上の玻璃のように、澄みきって冷たい歪みのない視線にたじろいだジェスは、ことばを捜しつつ言った。
「いや。なんか、その、君は……人形みたいだな、と」
「人形? ……」
 人形か、ともういちど小声で繰り返し、翠燕はその視線をジェスの上から外した。無表情なりに、愉快そうではないことがジェスにも伝わった。
 居心地の悪い沈黙が続く。聞こえるのは足音だけ。実に気まずい。心なしか照明までが暗く感じられる。考えてみれば、人形のようだと言われて喜ぶ男はいないだろう。いらんことをついうっかり言っちまうんだよな、とジェスが沈黙の中で反省していると、前方からにぎやかな声が近づいてきた。助かったような気がしてホッとしながら、ジェスは落としていた視線を上げる。にぎやかさはゆうに五人前はあったが、人影は二つだった。