第2章 お茶の時間 (2)

「え?」
 さらに首を傾げた斐竜とは逆に、翠燕は無言で頷く。事情を知っているらしい翠燕の様子に、ジェスがその先を翠燕に促した。
「十二年前の事件だ。犯人は、人ではなかった。……ウイルス、正しくはウイルスに感染し、それを変異させるウイルス。ヴァリアブレ・ウイルス、と呼ばれている。それによって変異させられたウイルスが原因だった。この変異ウイルスに感染すると、体中の水分の分泌がなされなくなる。涙、唾液、胃液、腸液、すべてが。体は焼け付くような痛みを感じる。乾いていると体は認識するから、水分を補給する。補給しても、水分は分泌されない。さらに補給、さらに補給。そして、水分を過剰に溜め込み膨らんだすべての細胞の細胞膜が変異ウイルス増殖と、そのもうひとつの特長によってはじける。はじけだすと、連鎖的にはじけていく。成人でおよそ120時間。最後には水分と体組織のなれの果てが混じりあったゲルが残る。元はステパノス星のレトロウイルスで、ステパノスの出身者のほとんどがキャリアだ。彼らはこのウイルスに対する免疫機構を先天的に持っている。発症しても彼らにとってはせいぜい、疥癬……水虫程度だ。だが、ヴァリアブレ・ウィルスによって変異したそれらは、その免疫機構をやすやすと突破して、全身に広がる。発症率は60%を超える。もちろん、ステパノス出身者でない場合、94%の確率で発病する。感染者と長期間にわたり接触すること、または接触した部位に傷があることで感染するが、厄介なことに、発症する者とそうでない者がいる。発症しなくても感染力を失ったわけではなく、正常に伝播する。発症しない感染者が、新たな感染者を生む」
 どこまでも淡々と翠燕が語る。彼のテキストのような説明を聞いていると、あまりにも客観的で現実味を感じない。それでも斐竜は、しばらく考えたあと身震いをした。まだ子供っぽいその両腕で自分の体を抱きしめる。豊かな表情が、その一瞬は凍りついていた。
「ショコラムースというコードネームで呼ばれていたはずだ。残骸が似ているから、と……悪趣味な命名だ。たしかにWS.FRANCEでは死神もムースと発音するが」
「……嫌な病気だな」
 眉根を寄せる斐竜に、ジェスは語る。
「そう。そんな病気が存在する事が知れたら、パニックだ。必ずそこから、全員が逃げ出す。逃げたやつのなかに、感染者がいれば……」
「被害は拡大する、だね?」
「ああ、だから、猟奇殺人と発表し、AG’のエージェントが派遣される。彼らはまず、厳戒令を発令し、外出、会合の禁止を言い渡す。同時に発生源を抑え、サンプルを捕獲する。感染した人間を識別し、参考人として隔離する。その間に、本部ではサンプルからのワクチンの開発と、治療薬の開発を並行して進める。ウイルスを駆除するための専門家たちは現地で必至にウイルスと戦いながら、解決する能力のない演技(ふり)をする。そして、事件解決後、未解決の汚名を着て、彼らは撤退する。もちろん、料金は全額返金。違約金も支払う」
 ジェスはそのあとでこう付け足した。
「本家AGが違約金と人件費も込みで必要経費は全額負担してくれるから、それでいいんだが」
 どのように言い表すべきか、ジェスは少しの間口を閉じる。斐竜の促すようなまなざしに、小さく頷いて、ジェスは続けた。
「彼らは、通常の任務より厄介で危険で、しかも解決してはいけない事件を担当する。バスター、と呼ばれている超一流のエージェントだ。俺なんか、足元にもおよばない。そいつらが、守っている当の連中から、ばかにされている姿を見るとつらい。特に、俺の名を引き合いに出して、貶しているときは、余計にね」
「そうか。名誉とか、報われること目的にしてるわけじゃないんだろうけど、なんか切ないよね。そういうの」
 おおらかに世間話のように翡竜は話す。つい、つられて話してしまったが、今の話題は通常仕事上の機密ではなかったか、とジェスが遅ればせながら気付く。まあ、いい、どうせクビにされた身だ。AG’の機密を遵守してやる義理もない。それにしても、なぜ、翠燕が知っていたのか。
 ジェスの疑問が思考として明確な形になる直前、斐竜が言った。
「でもさ、ネオ・キャメロットのじいさんたちは、正真正銘の古狸だったよ、ほんと。会長の心不全は、うちの仕事に不手際が在ったせいだって、返金要求までしてきたんだぜ。普通、恩人に対してそういうこと言う? まあ、全然お門違いってわけじゃないけどさ。だいたい、俺に会いたいって、ごねたのは会長のじいさんだし、それだって花竜の尻尾をなんとか捕まえて今後、有利な取引がしたいってのが理由だって言うんだから、自業自得だよねえ」
「……あいつらAG’への支払も値切ったのに、そっちでもか」
 憤慨したジェスは、左の拳をきつく握り締める。関節が、ゴキゴキと音を立てた。
「それで、返金したのか? まさか」
「とんでもない。何時だってうちはギリギリの価格でサービスを提供してるんだもの。返金なんて、できるはずない。こんなに良心的な組織、他にはないよ」
「よかった。それで少しは溜飲が下がるってもんだ」
 心底、ホッとしたらしいジェスに斐竜は目を丸くし、次いで弾けるように笑い出した。
「ジェス、最高。あんた、すっごいイイ性格してる。大好き」
「AG’は思いっきりヤラレタからな。……あの海千山千をどうやって納得させたんだ?」
「価格の修正のために、って花竜後宮に呼んだの。で、証拠品を検分してもらって、これ以上騒ぐなら、こちらとしても恒久的に黙って頂くことを考えなくちゃなりません、なんならテラに調停を頼んでもいいんだけどどうするって聞いたの。真っ青になってたよ。それも面倒だって言うなら、他ならぬ大お得意様のご要望、よろしければこの証拠品を破格でいたしましょう。で、手打ち。事件の料金とほぼ同額で、売ってあげた。もちろん、コピーはちゃんととってあるよ」
 同時に翠燕が、少年の頭に手のひらをのせて注意した。
「フェイ、しゃべりすぎだぞ」
 注意されても全く動じない斐竜は、何事もなかったかのように、実に楽しそうにことばを継ぐ。
「あ、それに、花竜はその姿を人前には現しません、って説明すると、初っ端からふざけるな、って帰っちゃう人もいるよね。っていうか、そういう人のほうが多い、ね」
 彼は翠燕の手のひらを頭に乗せたまま肩越しに翠燕を振り仰ぐと、こともあろうに彼に同意をもとめた。
「……そうだな」
 翠燕は渋い顔をしながらも、半ばあきらめているようだ。小さなため息をいただけで、それ以上は何も言わなかった。仕方なさそうに、斐竜の頭をぽんと軽く叩いて、彼は手を下ろした。
 斐竜が朗らかに話してくれたことで、一昨日来の疑問の一部が解消されたジェスは、ゆっくりと解答を反芻する。
 なるほど、それで、花竜やその双璧について張白は語らず、花紫も口を閉ざしたのか、と。
 このかわいらしい少年があの花竜だなんて、素直に信じるのは簡単でない。あの凄まじいうわさとのギャップが大きすぎて、どうしても驚かざるえない。つまり、うわさという何の保証もない情報をいかに容易く多くの人が信じこむか、という事なのだが、それを身をもって体験すると己の迂闊さ、正直に言うならば馬鹿さ加減をつきつけられた気がして、情けない。
 人はその実力を、経験で推りがちだ。経験とは年齢に近しく比例するものである。したがって年若い者、とくに自分よりも若い者が自ら以上の能力を持っているとは思わない。が、宇宙は広く、全ての生命が同じように齢を重ねるのではなく――惑星の運行は、それぞれ異なることは誰もが知る事実である。一日の長さ、一年の長さは同一ではなく、文化的な齢の数え方も同一ではない――寿命も種族によって大きく異なる。一応、連邦ではテラの暦に準じた統一暦を採用しているが、同一の種であってさえ居住する惑星や、社会環境、生活環境、ときには生活習慣によって、年齢の現れかたに差異がでる。若い、ということが、正確には若い姿をしているということが、すなわち未熟であるとはいえない。年老いた姿の者がすべて成熟しているとはいえないのと同じように。
 ジェスは常々、そう認識していた。にも関わらず、花竜の姿に驚天動地の衝撃を受けた。認識と得心の間には深くて広いミゾがあったらしい。外見のもたらすイメージと言う名の強い先入観は、時に正確であるために偏見であることに気付きにくいようだ。俺の偏見の度合いも、さほど他者と違いないらしい。苦笑しつつ、浮かび上がってきた疑問がある。
 と、すると斐竜も子供の姿をしているが、その実は違うのかもしれない。
「君は、何歳なんだい」
「また、随分唐突な話題転換だね。いいけどさ。俺は、たぶん、今年で十五歳」
 翠燕は二十七歳。連幸はたぶん翠燕より少し年下。張じいさんは享年五十四歳、ただし自称。俺としては、七十は過ぎていたと信じてる。で、あんたは、と斐竜は笑う。
「俺は明後日で二十九歳。……たぶん、というのは?」
「正確な誕生日とか、知らないし。谷の人間にはID、ないもの。特に俺や連幸は生まれも育ちもココだから」
「あ、そうか」
 谷の人口は数えらるほど少なくはないのだから、谷での生活者の間にも子供も生まれるだろうし、その場合、両親の生活次第によっては、やむなく手放されることも日常的にあるのだろう。まっとうに生まれてまっとうに育ち、或る日突然道を踏み外し表街道を歩けなくなった末に谷にやってきたのでない場合、IDどころか出生記録さえない。そうか、斐竜は生粋の谷っ子なんだ、となんだかジェスは感動する。
 では、斐竜は見かけどおりの子供である。どうしても、見かけどおりの子供でないことを期待する気持ちが拭えない。それは自分の偏見を否定したい願望の表れであることを知っているジェスはもう一度苦笑した。
 ジェスは一人考えながら、頷いた。そして、もう一つの疑問にぶつかる。
「重ね重ね失礼だとは思うけど、聞いてもいいか。それならどうしてそれに相応しい容姿の人に、頭目を任せないんだ。どうせ便宜上なんだろう」
 この際疑問は全て解決しておくべきだ、との信念に基づいてのジェスの問いかけの応えは、思わぬ方向から返された。
「残念ながら、相応しい容姿の者がおりませんの」
 背後から突然聞こえた声に、ジェスはうつむき加減だった首を――斐竜と視線を合わせようとすると、身長差からどうしても下を向くことになるのだ――はじかれたように上げ、振り返る。視線の先には美声に相応しい艶やかな花散里がいた。白く輝く髪が、もう一つの太陽のようだった。花散里の纏う気は、やわらかく穏やかで温かい。敵意のない者の気配は察知しづらいが、まったく感じなかったとは随分なことだ。ジェスは、自らの能力が鈍化している事を痛感させられて、優雅に挨拶をする花散里に曖昧な笑顔を向けた。
「翠燕や、私ではフェイとさして変わりませんでしょ。石涼でも、似たようなものですわね。王虎では別の意味で問題がありますの。容姿だけの頭目役なんて、必要ございませんわ。それに、謎が多いというのは、いい演出になりましてよ」
 ようするに、客を篩いにかけているのだ。
 花竜の噂を頼りに、そのつなぎとなる人間を探し出し、少ない情報にすがってでも彼に会いたいという者、そして会う事の出来ない花竜を信頼できる者、もしくは姿を見ることを断念できるほど追い詰められた者だけが、彼らの依頼者になれるのだ。当然、姿を見せた花竜を信用できなければ、依頼者にはなれない。
 なんということだろう。
 花散里のことばをゆっくりと理解して、ジェスは呼吸さえ止め、思考の整理に没頭した。
 この世界、「客は選べ」と言われていても、徹底してそれを実施できる組織は少ない。そもそも客となる人口が、限りなく少ないのだ。堅気の仕事ではないから、顧客も堅気ではない場合が多い。客が少ないのは世の中にとってはよいことだが、それを仕事にしている身には辛い。選んでなどいられないとばかりに、次々と依頼を請け負う組織こそが普通だろう。AG’でさえ、ここまで徹底できなかった。そのためにジェスは何度かの仕事のなかで、あろうことか客に命を狙われるはめにあっている。しかもそれは特筆すべき非常事態ではなく、常時念頭から外すことのできない第一の警戒事項なのだ。当然だが、仕事先でのアバンチュールなど危険すぎて味わえたものではないし――少なくとも俺は、一度で結構。二度は多すぎる――、ロマンスなどとは程遠い生活を強いられる。いったい、何処の馬鹿者がそんな物語を作るのか。事実は物語よりずっと過酷なのだ。いや、過酷だから、ロマンスに憧れるのか……。
 ともあれ、客を選ぶことは、仕事を減らすことに他ならない。ただでさえ経費のかかる業務だ。ケチれば失敗の可能性もでてくる。収支のバランスは大丈夫なのだろうか。赤字を抱える組織には大切な要件を任せる事はできない。それは成功を遠ざけることになるからだ。
 ジェスはそこまで考えて、思い当たった。
 一件あたりの料金だ。
 斐竜は昨夜、安い仕事は請けない、と言っていた。少々のリスクがあっても、大きな仕事なら採算がとれる、ということだろう。
「なるほどね、よくできた仕組みだな」
 大きな溜息をついて、感心したように頷いたジェスに、花散里はにこりと笑った。つい、その笑顔につられて微笑み返しそうになる顔筋を、ジェスはやや苦労して押し留める。ひんやりとした朝の風を深呼吸する。頭の中まで冴えるような清々しい空気。たっぷり十秒ほどおいて、ジェスは斐竜に向き直り、最後の疑問の解答を求めた。
「それにしても、どうして俺に教えてくれたんだ? 花竜の正体を」
「ジェスが話してくれたから、かな。だって、俺たちの前で、AG’のハンターだって言ったら、どうなるかくらい、本当はわかってたよね? それなのに話してくれたのって、けっこういいよ。嘘をつけないくらい、大事な依頼ってこと、俺にだってわかる。だから俺もジェスの誠意に応えた。それだけ」
 照れくさそうに、それはどうもありがとう、とジェスはエリシュシオン語でお礼を言い、頭を掻いた。先ほどから度々かき混ぜられたジェスの蜂蜜色の巻き毛は、寝癖のせいもあって、もつれ絡まっている。色が黒ければ、すずめの巣というところだ。
「ふうん、ジェスってさ、ハンターっぽくないよね、そういうところ」
 斐竜が興味深げに言った。その寝起きの姿は確かにハンターらしくないが、彼が言う「ハンターっぽく」ないというのはどうやら外見ではなく、ジェスの内面に対してらしい。
「そうかな」
「うん。そんなにいろんなこと考えてると、俺は動きがにぶくなっちゃうよ。どっちかって言ったら、俺は直感的に動いちゃうからさ。ちょっと尊敬する」
 斐竜のことばに、翠燕が苦々しげな表情でそっと呟く。おまえのは直感ではなく、脊椎反射だ、と。
 だが、言われてみると、たしかにそうだった。ジェスは常に考えている。どんな戦闘の最中にあっても。いかにしてローリスク、ローコスト、ハイクオリティに仕事を仕上げるか、を。それこそ脊椎反射でいくつもの危地を乗り越えていくハンターが多い中で、それは異端だった。だからこそ、AG’のトップエージェントでいられたのだとも言える。が、
「親父の影響だろうな」
 不本意そうな口調に斐竜が不思議そうな眼差しをジェスに向けた。
「俺の父親は、根っからの商人気質でね。いやだ、いやだって思ってたけど、やっぱり影響を受けてるんだろうな。ついつい採算を考えちまう」
「へえ、そういうものかな」
 親ってどんなものか知らないからわかんないや、と斐竜がつぶやく。彼にとっては、あくまでも事実の伝達だったが、聞いたジェスが、しまった、と発言を後悔させられるに充分な威力を、そのことばは持っていた。しかし斐竜はジェスが声を発する前にさらに言った。
「まあ、俺は他に考えてくれる人がいるから、そっちは任せておこうと思ってるところもあるけどね」
 頭の後ろで腕を組んだ斐竜の肘を、翠燕がかなり強く小突いた。その勢いは、ド突いた、に近い。
「なにが任せておこう、だ。おまえは全然、考えが足りない。おまえの頭は饅頭(まんじゅう)か。その中身は餡子(あんこ)か! そこについている黒いのは豆か!」
 小突かれてよろめいた斐竜が花散里腕の中に倒れこむ。抱きとめた花散里が斐竜の頭を撫でながら翠燕に言った。
「まあ、ひどい。いいじゃありませんの。適材適所よ。ね、フェイ?」
 花散里は斐竜にはどこまでも甘い。聖母のような微笑で、斐竜を見つめる。そうだよねえ、と斐竜が相槌をうつ。
「俺が考えたって、たかが知れてるもん」
「今のところは、よ。大器晩成っていうでしょう。気にする必要は無くてよ。それに、熟しが早いものは腐りも早いのよ」
 最後の言葉が誰に向けられたものか察し、ジェスは笑いをかみ殺す。
 面白くなさそうにその光景を見ていた翠燕は ―― 苦虫一匹口に含んだ表情で ―― 愛想などかけらもない口調で言った。
「花散里、着替えて来い」
 翠燕のことばに対する花散里はことばではなく、極上の笑みで返した。斐竜を頬ずりせんばかりに抱きしめて。