第2章 お茶の時間 (1)

 呆然と、としか言いようのない表情で花竜(ファルン)その人を見たジェスは、差し出された右手を条件反射で握り返し、左手で寝癖のついた髪をかきあげた。そのまま無意識に後頭部を数回なでた左手でゆっくりとグラスを外す。しばらく困ったように視線を宙にさまよわせた後、彼はようやく発声することに成功した。
「あー、ええっと、……そうしたら、花竜、と呼んだほうがいい、のかな」
 一瞬、それでは花竜とお呼びしたほうがよろしいですか、と言うべきか悩んだジェスだが、それではあまりにも接し方の差が露骨でかえって嫌味になりそうだということに、すんでのところで気が付く。彼のことばは、そのためなんともたどたどしい口調になってしまった。もっとも彼のエリシュシオン語は、もとから「弁舌さわやか」とは評価しがたい。
「ううん。フェイ、でいいよ。呼びにくいでしょ。それに『花竜』は便宜上の名前だもの。自分からそう名乗る事は滅多にないし。そう呼ぶ人が多いのはホントだけどさ。それと、実質組織を取りまとめてるのは、俺じゃなくて、翠燕や連幸や石涼たちだから、頭目ってのも、まあ、言ってみれば便宜上、だね」
 俺みたいなガキを相手にそんなに緊張しないでいいから、と少年は朗らかに笑う。ジェスの間の抜けた表情がよほど可笑しかったのだろう。遠慮もなしに笑っている少年は、確かに谷の組織を牛耳っているような人間には見えなかった。
 困惑と動揺の中で、ジェスはもう一度前髪をかきあげる。明け方の冷たい風が顔の傷跡を撫でる。くすぐられるようなやわらかな刺激に、彼は顔を斜めに走る傷跡を指でなぞった。ジェスのあまりの茫然自失ぶりに、翠燕が小さく笑うのが彼の左の視界の端に映った。
 動揺を押し隠すようにして、ジェスはことばを紡ぐ。
「その、……花竜っていうのは、君の名前に由来してるのか」
「ううん。竜は架空の生き物、他に権威の象徴でもあるよね。あと、WSでは悪魔の化身だっけ。花は栄華。魔王、とか、得体の知れない闇の権力者っていうイメージからでしょ。俺の名前と似てんのは偶然さ。斐って文字には軽いって意味があるんだ。だから俺の名まえは小さな竜って感じかな……トカゲかヘビかってとこかも?」
 そう言って、斐竜はにこりと笑った。朝日の中で見る少年は、昨晩の印象よりもずっと華奢で幼い。見ようによっては少女に見えるほど愛らしい。十五、六、いや、十四、五歳か。性を獲得する以前の透明感、成長と同時に失われてゆくものが、彼にはまだ残っている。メタリックブラックのショートヘアが背後からの陽光に群青色の光沢を放つ。眩しく感じて、ジェスは隻眼を細めた。磨き上げた金属が鏡になるように、斐竜の瞳に自分が映りこんでいた。斐竜の鋼のように強く硬い輝きを宿す瞳は、意志の力にあふれている。斐竜の瞳に浮かぶ光と、全身から発散される活気が、華奢な体つきの彼をひ弱には見せない。市井の者には見られない、研磨された光。この谷が、これほどの輝きを宿す瞳をつくるなら、ここも存外、悪いところではないのかもしれない。
 感動にも似た境地で斐竜の晴れやかな笑顔を見ていたジェスは、一瞬、彼の面差しが誰かに似ているような気がしたが、結論にたどり着く前に思考を打ち切った。思い出したくない人に、似ているような気がしたために。
「どうしたの、ジェス」
 ほう、と息をついたジェスに少年が笑いを収めて尋ねた。
「いや、……安心したんだ。これで君が噂に聞く花竜だったら、ちょっと、俺、心不全とか、脳溢血とか、そういう気分」
 だれもその姿を見たことのないという谷の実力者、花竜の噂には、身の毛もよだつ、血も凝る、としか言いようのない話が多かった。
 そう言うと、斐竜は興味深げにどんなうわさなの、と聞き返した。
「そう、そのぅ、いろいろ。スプラッタでホラーでサイケデリックな……ええっと、取って喰われる、とか、魔法使い、とか」
 無礼に聞こえたらごめん、と謝るジェスに斐竜は笑顔でかぶりを振る。慣れないエリシュシオン公用語を懸命に話そうとするジェスに、斐竜は無理しなくていいよ、とWS語で返す。
「あいにくと、俺はそこまで悪食じゃないよ。第一、人間なんて、食うとこないじゃん。噂って、ほんと、面白いな。俺のことなんかまるで知らないヤツが、適当なこと言ってんだろうけど……でも、ま、意識的にそういう噂を流してる部分もあるから、仕方ないか」
 流麗なWS語で斐竜は話す。癖のない発音は、テラのセレクトにも稀なことだ。母星がテラ、血縁に上位セレクトがいると主張しても、ほぼ確実に通用するだろう。疑いを持つものなど、いないのではないだろうか。
 おまえが悪食の魔法使いと言うことは、俺は使い魔のヒキガエルか、と翠燕が面白くなさそうに呟いた。
「ええ!? そうじゃないでしょ。俺が魔法使いなら、おまえは本物の魔王だよ。俺に使役されて満足できるような小物じゃあないでしょうが」
 本物の魔王、を前にしてけらけらと笑う斐竜の額を、翠燕は中指で強く弾いた。いたた、と額を抑えながらも斐竜は笑いを治めない。
「立場を明かして人に会うことは少ないんだ。大概、『ウソだ!!』ってことになる。そうなると説明が面倒だし、中にはちょっと気の毒なくらい驚いちゃう人もいるからね」
 気の毒とは言いつつ、斐竜はなかなか楽しそうに笑う。ほんの少し首を傾げ、肩を小さくすくめる斐竜の小悪魔的な表情に、ジェスの鼓動は大きくひとつ、音をたてた。やはり、どことなく似ているような気がする、と思考の端で感じながらジェスは斐竜から視線を逸らせた。斐竜の後方、午後の日差しには赤く輝く大地が、清涼な朝日を受け白く煌いていた。
「実際に心筋梗塞と脳梗塞を併発する衝撃を受けた御仁もいたな。気の毒だとは、思わないが」
 翠燕は事も無げにそう言った。彼のWS語は、斐竜に輪をかけて美しい。しかし、美しいことばとは裏腹に、彼の口調にはまるで容赦がない。丁寧なことばをあえて使ってはいても、どこか冷たい、言うなれば慇懃無礼に近い印象をうけるのだ。
「仕事は完遂。いざ支払の段になって、花竜本人に直接支払いたいと言って譲らない。仕方なくコレが花竜だ、と言ったら」
「冗談もほどほどにしたまえ」
 と言って、その初老の紳士は烈火のごとく怒り始めたらしい。WS.BRITAIN語で斐竜は真似る。WS標準語によく似ているが、抑揚や言い回しが古風である。典雅と感じるか古臭いと感じるかは個人の好みによる。
「この子供が、あの花竜だと? 質の悪い冗談はやめたまえ。君たちのような子供にからかわれるとは、わたしも甘く見られたものだ……不愉快だ。君たちの無礼は花竜にも伝えさせてもらう」
 挙句の果てには、顧客を馬鹿にするような者を雇っているような無頼に、高い金は払えないとごねはじめた。噂に聞く恐ろしい花竜の機嫌を損ねないように契約時に料金面で涙を呑んでいたのか、あるいは相手が子供ならもう少し値切ってやろう、とそんな気持ちになったのかもしれない。
「それで、どうしたんだ」
 そういう石頭も、中にはいるだろうと思いながらジェスは尋ねた。答えることさえ馬鹿馬鹿しいといった様子ではあったが、翠燕は一応、教えてくれた。嗤うとも呆れるともつかない、短い息を吐いて。
「当初の契約どおりの金額をいただいて、首都へ送り返した」
 いただいて、と翠燕は表現するが、おそらくは無理やりか、そうでないならば有無を言わさずふんだくって、というほうがより客観的光景だろうと推察したジェスは肩をすくめる。契約不履行未遂の違約金を取らなかっただけ親切に思ってもらいたい、との翠燕の発言に迂闊に同意できず、ジェスは曖昧に頷いて先を促した。ここで翠燕の意見を肯定しようものなら、このあとの商談でどれほどの見積もりを出されるのか恐ろしいことになりそうだ。それくらいは、動揺している頭でもわかる。
「なるほど。それで? 結局その人は納得してくれたのか?」
「納得? 時間があればできたかもしれないな」
 当時首都で別件の調査を担当していた者の話では、紳士はその後、してやられた、騙された、となんども繰り返していたようだが、宿泊先のホテルでうさばらしにあおった酒が原因で血圧が上昇。脳内出血と不整脈で倒れたという。数時間後、運び込まれた病院で意識不明となり、
「翌朝には、お陀仏」
 斐竜が形ばかりの黙祷をする。エリシュシオンの首都で脳溢血と心筋梗塞で死んだWS.BRITAINの老紳士……。思い当たることがあったのか、ジェスの右眉がぴくりと動いた。傷がその動きに微妙に引き攣れる。
「あ、……それ、その人って、もしかしてネオ・キャメロット社の前会長じゃないか?」
「うん。そうだよ。あのときはまだ現会長だったけど。そう、仕事がかち合っちゃったんだよね、ジェスと」
 それは二年前の事件である。
 ネオ・キャメロット社は、超一流の輸送会社だ。コシキユカシイそのネーミングセンスからもわかるように、WS.BRITAINに本社をおく星間輸送の大御所であり、特別編成された護送船団(私設軍隊としての公式認可もうけている)による輸送で他社の追随を許さぬ勢いである。その会長が二年前、出張先で急逝した。過労と心労による衰弱、と、わかったようなわからぬような死因が報道されていた。
 過労と心労の原因は盗難である。ある有力な顧客から依頼された重要な積荷を、船団ごと、盗まれたのだ。こともあろうに三女の婿に。輸送船三隻、駆逐艦七隻、駆逐艦一隻につき戦闘艇1800艇を搭載、総員満4万8千200人。しかも、その護衛艦隊を率いていたのは次期社長とみなされていた末の息子で、乗組員もほぼ全員が血族、姻族だった。平たく言えば積荷と後継者たちの二つを人質にした企業内クーデターである。寿命を削る事件であった事は事実である。しかも、ネオ・キャメロット社は内輪のこととして秘密裏に処理したかったのだが、事件の規模が規模だけに、AGがことの解決に乗り出し、当然AG’にも出動要請がだされた。事件が公になってしまったことで、会長の心労がますますつのったことも想像できる。
 だけど。と斐竜は続けた。
 ネオ・キャメロットの首脳たちの苦悩と心痛の真実の根源はそんなものではなかった。その程度の痛みで死ねるほど、彼らが高潔であったなら、そもそもその事件は発生しなかったのだ、と。
 優秀な後継者を失うのは痛い。しかし手間と暇と金さえかければ、別の後継者を育てる事ができる。積荷の賠償など、些細な問題である。スキャンダルはもちろんいただけないが、一過性のものであれば社の基盤を揺るがすような騒ぎにはならない。そう、それだけの実績と信用がネオ・キャメロット社にはあった。したがって、犯罪者となった親族の、法による処分さえ正しく成されれば、それで解決するはずだった。
 本来は。
 けれど、ただ一点、この事実においてのみ、彼らは事態の収拾に苦しんだ。そしてその事実のために、裏切り者との不本意な取引をきっぱりと撥ね付けることも、AG’の協力要請に快く応えることもできなかった。
 積荷が、違法の品――さすがに斐竜も積荷が何であったのかジェスに教えてはくれなかったが、教えない以上、並みの違法の品でないことは確かだった――であったために。
 だからこそ輸送責任者に次期社長候補を据え、乗員のほとんどを身内で固めていたのだ。
 そして犯人も、だからこそ、この船を選んだ。
 可及的速やかにAG’より先に積荷を奪還し、偽装品と摺り替えなくてはならない。その際に後継者たちを可能な限り無事に救い出し、裏切り者の口を、確実かつ恒久的に塞ぐ必要がある。そして、保険会社の追及にも逃れうる、信用あることの顛末を用意しなくてはならない。こういったトラブルの事後処理のために常々高い保険料を支払っているのだし、構うなと言えばかえって疑われる。依頼主も、ネオ・キャメロット社も、賠償などこの際、もう、どうでもよかったのだが、世間がさわぐ原因をこれ以上作らないためにも、誰もが納得できるストーリーが必要だった。
 当然、輸送を依頼した取引先も事態を重く見て、解決のために協力を申し出た。
 短い議論の後、彼らはエリシュシオンを訪れる。名目は、積荷補償の折衝、および事態の解決後の取引について。
 そうして、彼らが最終的にたどり着いたのは谷の組織でも謎の多い花竜のもとだった。積荷の依頼主のひとりが、かつて花竜の世話になった人を知っているという理由で。
 それ以外にツテやコネがなかったわけではないのだが、後々まで口止め料を求める小物に依頼する愚挙を冒せない――テラへの反逆が知れれば会社どころか命まで失うという弱みは、末代までタカラレル原因になる――し、花竜はこと料金に関しては最初に提示した額以上を求めないという評判があった。もちろん、その提示額は非常に高いが、「命は金では買えない」のだ。
 そして事件は、犯人の死亡で決着がついた。世間には勇気ある若き後継者が指揮を執り、犯人の隙をついて反撃し、格闘の末勝利したと発表された。正当防衛と判断が下され、彼の刑事責任は追及されず、また、死んだ犯人の妻、同時にこの英雄の姉からも民事訴訟の提訴もなく、ネオ・キャメロット社の威信は揺らぐことなく解決した。
 斐竜の話に、唖然としてジェスは言った。
「そいつは、知らなかったな……すると、俺はまんまと君らに出抜かれたってことか」
 ジェスが僅かな手がかりから、犯人の潜伏先を突き止めて、人質の救助と犯人の捕獲に駆けつけたのは、犯人の死亡直後だった。確かめてみると、それはまだ温かく、やわらかかった。できるなら生かして捕らえたいと考えていたジェスは、もう三十分早ければ、と自らの至らなさを悔やんだ。犯人の死亡で解決するのは、こういった事件では最悪ではなくとも、それに近い後味の悪さがあるのだ。
 死刑が適用されるとの司法局の判断がなされない限りは、ハンターであってさえ殺傷不認可とされる。
 死亡した犯人は営利目的の素人の誘拐犯であり、当然死刑の対象ではなかった。犯人を倒したとされる青年が罪に問われなかったのは、手心を加えながら戦えるプロではなかったと司法局が判断を下したからである。もし、仮にジェスが彼を殺害したのであるならば、その行為は故意として認識され、当然罪の対象になっただろう。
「あのときはね、ちょっとヒヤヒヤした。お客さん、ジェスんとこには協力的じゃなかったのに、あっという間に標的の潜伏先、突き止めちゃったでしょ。俺はそのミッションには参加させてもらえなかったから、ここでずっとクサッてたんだけど、後半はもう、ドキドキしっぱなし。先越されたらどうしようって。実際さ、撤退する時間はなかったんだよ。うちのメンバー十五、六人、あの中に混ざってたの、知ってるよね」
「ああ、なんか毛色の違うのがいたな。十七人だろ? 俺、絶対、堅気じゃないって思った。……だけど、私のボディカードだ、こういう不測の事態のために雇っているって艦長に主張されちまったからなあ」
 身元を照会したほうが良い、と進言すると、それは君に心配してもらうことではない、と言われたとジェスは苦笑した。
「あんときは、結構、腹立ててたな。その一件ももちろんだけど、身内の不始末だからとかなんとか言って、有益な情報のほとんどを隠してくれたしな、あの狸ジジイども。はん、そうか、俺に解決して欲しくなかったわけだ。なるほどな……それならそう言えばいいんだ。こっちだって、暇じゃあないんだ。解決しなくていい依頼を俺に寄越すなよなぁ。しかも、わざわざのご指名だったんだぜ。不愉快なくそジジイめ。ひとをコケにしやがって」
 思い出して不愉快になったのか、ジェスは敬老精神に欠ける発言をした。発言の一部に引っ掛かりを覚えたらしい斐竜が、小鳥のように首をかしげた。
「あれ、ハンターが解決しちゃいけない依頼なんて、あるの」
「あるよ。解決しないほうが、いいことも……そうだね、少なくない」
 たとえば、と斐竜は問いを重ねる。
「たとえば、一見溶解したように見える遺体が発見される。それが一件だけなら、事故にせよ殺人にせよ、取り立てて騒がれる事にはならないだろ。それが、一部の地域で、偶然では片付けられないほど頻発した。猟奇殺人と、報道された。犯人はいまだに見つかっていない。迷宮入りするのも、時間の問題だ。だけど、二度とは起こらない。理由は」
 ジェスは、一旦ことばを切った。
「解決しているからだ」