第1章 竜との遭遇 (5)

「ね、ね」
先頭を行く少年が、歩きながら男に話しかけた。
「あんたさ、宇宙(そら)から来たんだろ。ね、何度か飛んでるの?」
「そう、だな。仕事柄、結構ね」
「いいなあ。俺はこの谷から出たことないんだ。よかったら聞かせて。宇宙って、どんな?」
 不意に男のなかで、その言葉が二重に聞こえた。懐かしい女の声と。
「宇宙って、なに? あなたにとって」
 鈴の音のように心地よい囁き。
 回顧に引きずられそうになり、男は返答を過去の返答からあえて外した。
「初めて、宇宙に出たときは、そうだな……感嘆詞しか、思い浮かばなかった」
 少年は、男の言葉から情景を想像しているのか、少しの時間をおいて、小さく頷いた。
「早春の夜明け。花曇、って天気だったんだ。薄墨色の空が近づいてきて、そのまま、霧の中に飛び込んだ。霧のなかでも上空は光っていたな。突然、霧が晴れた。っていうか、雲の上に出たんだけど。視界いっぱいに、いろんな青が広がった。青いグラデーションで彩られたドームの中にいるみたいだった。天辺は紺青、サファイアのような透明感のある、でも、もっと深い色だったな。それから藍色、紫色」
 思い出しながら話す男の口調が、ゆっくりとしたものになる。
「よく覚えていないが、視界の端に映ってたのは、緑色に近い鮮やかな水色だった。どんどん、サファイアの天井が近づいてきて、……包み込まれるように、窓の外の色が変化した。それから、ヴェールを剥がすように真っ黒な空間に出た。後ろから淡いブルーの光。たぶん、母星の反射光だ。それから右手側の窓に、真っ白な太陽が見えたな。これが、たぶん2分くらいの間に起こったんだよな、きっと」
「きっと?」
「ああ、何ていうか、すごい振動と、シートにぎゅうぎゅうと押し付けられてる状態で、長かったんだか、短かったんだか」
「へえ」
「ようやく、身動きできるようになったときはもう宇宙だったから。奥行きのある、だけど遠近感がつかめない黒い空間。近いんだか遠いんだか想像できない星。……塩つぶが光ってるみたいだったな。で、俺は急いで閉じていたヘルメットのフェイスシールドをあげ、吐いた」
「情けないね」
「仕方がないだろう。乗り物には酔いやすい体質なんだ。もちろん、ちゃんとエチケット袋は持っていった」
「なかったらどうなるのさ、ゲロ袋が」
 ゲロ袋、という呼び方に男は一瞬言葉を飲み込んだ。しばしの沈黙の後、おそらくその光景を想像してしまったのだろう、男はやや、うんざりした様子でこう言った。
「ゲロが巨大アメーバみたいに泳ぐんだろうさ。船内を」
「汚い……」
 少年の素直な感想に、少し後ろを歩いていた青年は、ごく真面目に解説を付け加えた。
「そのアメーバが、万が一にも計器類に付着したら、汚いでは済まされないぞ。水分が電気系統に影響を与えでもしたら、十中八九、宇宙の塵だ。人様の迷惑になりながら、星間を漂う。まさにゴミ」
「もうすこし、夢のあるものだと思ってたよ」
 少年は意気消沈してつぶやいた。そのガッカリした様子が極端なので、男はつい笑ってしまった。慰めるように言う。
「夢じゃない、現実だからアクシデントもいろいろあるさ。だけど、そういうのは慣れちまえばどうってことはないからな。それに、今でも綺麗だって思うぜ。宇宙に出る瞬間は。何度見ても、そのたびに違うし、例えば、空の色や輝き、光や……想像でしかないけど、風もね」
「ふうん。慣れ、とか、飽きちゃったりはしないんだ」
「まあ、俺は、飽きないな」
「そっか、いいね。俺も出てみたいな」
 星空を見上げて、少年が言った。どこか寂しそうな口調に、男は首を傾げた。
「出ればいいじゃないか」
 思った事を、わりとそのまま発言してしまう男は、このときも思ったままを口にした。刹那の間をおいて少年ははじけるように笑った。
「そう簡単には、行けないよ」
 苦笑と嘲笑が交じり合った笑い声だった。
「あんた、ここがどこか知ってて言ってんの? ここはエリシュシオンの谷だ。言うなればタルタロスさ。封じられた者が、外に出るって、どういうことかわかる? 仕事なら、いいさ。一時、ならね。でも、長い時間を過ごせば必ずテラに見つかる。それが何を意味するのか、わからないほどあんた馬鹿?」
 辛らつな口調に男は絶句する。
 タルタロスといえば、ギリシア神話にでてくる深い谷だ。オリンポス神族に敗れたティターン神族が封じられた牢獄でもある。
「や、ごめん。その、知らなかったんだ。制約のないAG’(ダッシュ)のようなものだと、思ってた。ごめん」
「あんた、ほんっと、いいお育ちなんだろうな」
 呆れた、と少年は言った。ことばからはもう、先ほどのような刺を感じない。
「制約のないAG’(ダッシュ)か。ほんと、そうだったらカッコいいのにね」
 少年は笑う。屈託なく、とはいえない。どこかしら、ほろ苦い響きがあるように聞こえる。
 A・G’というのは中央政府議会(The Assembly of Galaxy 略してAG)の下請民間商社のことである。政府代行社(The Agency of Governments)なので、略してAG’。「’」、つまりダッシュである。よろずもめごとの解消――解決でないところが、いかにも商社的だ――を主要業務とし、諜報、護衛、研究、戦闘といった国家業務の代行から、身上調査、裁判資料の作成などの司法業務、税徴収、戸籍管理など行政にも深く携わっていた。
「フェイ、危ないぞ」
 男の前を軽やかに歩く少年に、青年が注意を促した。
「道幅を考えろ。ふらふらと歩くな。スキップするんじゃない。落ちても助けないぞ」
 青年のことばに、少年ではなく、男が足元を確認した。
 衛星のないこの星の夜は、暗い。わずか二歩先を歩く少年は、シルエットでしか確認できないし、数歩後ろを歩いているはずの青年はその足音さえもしないため、声でしか存在を確かめられない。もしかして、俺は墜落で死んでいてあの世に向かって歩いているのではないだろうか、と冗談半分に考えながら歩いていた男は、足元を確認し、アヤではなく真実眩んだ。
 道幅はベットの幅ほどもない。寝返りをうてば落ちるだろう。
 どこへ。
 タルタロスのさらなる深淵へ、だ。
「大丈夫か」
 突然膝をついた男に、青年が後ろから声をかけた。
「ああ、……」
 返事をするが、跳ね上がった心拍数と呼吸が平静を取り戻すには時間がかかる。
「大丈夫」
 深呼吸を三度。やっとの思いで立ち上がる。
「高いとこ、ダメなの? それとも、もしかして暗いのがだめなの?」
 ずんずんと先に進んでいた少年が駆け戻ってくる。砂を踏む足音に、やめろ、走るな、と悲鳴が喉から飛び出そうになる。それを察したのか、青年が少年に命じた。
「フェイ、ゆっくりと静かに歩け」
「うん?」
 おそらく首を傾げながらのことだろうが、少年はおとなしく指示に従った。
「ごめん。以前は、大丈夫だったんだけど、……平衡感覚がまだいまいちつかめなくて……右目、ほとんど見えないから、遠近感も掴みにくくてね」
「最近か」
 青年が問う。
「三月前。ちょっと、馬鹿やってさ。……今回の依頼も、まあ、言ってみれば右目のお礼参りだ」
「そうか」
「えっと、大丈夫? 本当に。後ちょっとだけど……ライト点けた方がいいのかな」
 少年のことばの後半は青年への問いかけだ。
「いや、やめておけ。光は無用なものまで呼寄せる。この状況でオオトカゲにでも出くわしたら、まず、落ちる」
 少年は気遣うように男を見、頷いた。そして、
「手、つなぐ?」
 極真面目に提案してくれたらしい様子に、男は恐怖も忘れ思わず笑ってしまうところだった。表情が確認できない闇に包まれている事に感謝して、笑いで震える声を懸命に抑えて応えた。
「いや、大丈夫。ありがとう」
「そう? じゃあ、行こうか」
 何事もなかったかのように歩き出した少年の後を歩きながら、男は後ろの青年がかすかな笑いをこぼした気配を感じた。
「面白い子だな」
 先を行く少年に聞こえないよう、小声で男は青年に話し掛ける。
「あんたも、な」
 即答されて、男は苦笑した。
「……そうだな、否定しようがないな。散々な醜態をさらしたからな、君らの前で」

 落ちずにたどりついたのは、どう見ても行き止まりだった。
 眼前には大きな岩壁が存在し、その他のものは見当たらない。
 慌てる事もなく少年は壁に呼びかける。
「ただいま」
 変化なし、と思えたそのとき、岩壁の一部が溶けるようにして消えた。ホログラムだったのだろう。
「声紋と、網膜識別。これがまず、第一の鍵。足元には声紋や網膜のデータと体格データの適合を調べるセンサーも設置されている。ここを含めてすべてのゲートが、管制室から管理されている。ゲートキーを持つものは組織の中でも1割に過ぎない。無断外出は2度と入れないことを意味する。遠慮してくれ」
 青年が解説をする。
 何の下調べもせず、谷に乗り込んできた男はあんぐりと口をあけたまま、へえ、と間抜けな相槌を打つばかりだった。男は、彼らを制約のないAG’と感じる一方で、山賊のようなものだとも思っていた。考えてみれば、この星の外にまで手を広げて仕事をしている彼らの技術力が、前時代的な賊徒と同レベルのはずはないのだ。
 消えたホログラムの向こうに、小さなキーボードが現れる。
「次に暗礁コード。現れるキーボードには数種類ある。種別ごとに違うコードが設定されている。3桁1000通りのコードを選択し6つ入力する。入力時間は開始から6秒以内。一度でも間違えると、ここは開かなくなる。同時に指紋とDNAの簡易確認も行われる」
「コードを間違えたらどうなるんだ」
「ゲートキーパー、って当番が確認するのさ。どういう状況か」
 少年が答える。
「人質にされてるかも知れなし、眼球だけとか手の皮だけとか、パーツごとになっちゃってるかも知れないだろ。そういうときは人間が直接確認するんだ」
「ふうん」
「単に間違えたときは、ごめんねコードを打ち込んで、ほかのゲートに廻る」
 試さないでくれよ、俺はもう一度あの道を通る気力はない、と切実に訴える男に、少年は小さく笑った。
「そんな面倒、俺もごめんさ」
 スムーズに18個のキーを打ち込む。どうせ見えはしないのだが、一応男は視線を逸らせた。
 かすかな振動とともに、ゲートが開く。
 岩戸だ。
 ホログラムではなく、本当に、巌が左右に分かれてゆく。
 同時に、岩の向こうからやわらかくあたたかな光が溢れ出てきた。
「ええっと、ようこそ。花竜の城へ」
 気取った様子で挨拶をする少年は、淡い光の中で自らが発光しているようだった。男が予想していた以上に幼く、また愛らしい。本当にこの少年が谷の組織に属している者なのだろうか。血なまぐさいその評判とはどうしても結びつかない少年の姿に、男はことばもなく見入っていた。
「来るぞ」
 青年が、岩の向こうの通路、奥から走ってくる若い男を見て、やや緊張した様子で少年に言った。
「怒ってるね、すごく」
「あたりまえだろうな」
 少年の告げた事実を、青年が受け流したそのとき、走ってきた男が大声で怒鳴った。
「いったい、あなたたちは! 何度言って聞かせたら分かるんですかっ」
 その痩身からは想像できない大声だった。
 行き先も告げずに外出するわ、勝手に予定は変更するわ。こちらの指示はまったく聞かないし、連絡さえ滞りがち。何のための通信システムです、どうしてそうも無頓着に行動できるんです、だいたい、あなたがたは……
 早口のエリシュシオン語だったため、男はそれ以上聞き取る事が出来なかった。
 主に叱られているのは少年だったので、男は青年の袖を軽く引いて尋ねた。
「誰?」
「シーリャン。石涼、と。花竜の優秀な切込み隊長にして、花竜も恐れる風紀委員長」
「石涼!? へえ、若いんだなあ」
 男は石涼を見ながらそう言った。うわさに聞いていた石涼という人物に、彼は百戦錬磨の猛者を思い描いていたし、その年齢はおそらく五十代だと、勝手に思い込んでいた。しかし、いま目にする石涼は、自分と大して変わらない。いや、せいぜい二十五、六にしか見えない。もっとも、ES系の人間の年齢は、WS系の人間よりも若く見えることが多いため、もしかすると自分よりも年上かもしれないのだが、それにしても、こんなに若いとは思ってもみなかった。どちらかといえば甘く穏やかな顔立ちの青年と、石涼という名前の与える印象が一致しない。男がぼんやりと石涼を見つめていると、石涼は青年を振り返った。
「聞いているんですか!」
「石涼、無頓着に勝手をするのは、こいつだ。俺じゃない」
「そんなことはわかっています。あなたが止めなかったことも含めて」
「俺は止めた」
「結果的に止められなかったのであれば、同じことです」
「ごめん。ごめんね。石涼。心配かけてごめん。心配してくれて、ありがとう。えっと、紹介するね。うちの風紀……じゃなっくて、突撃隊長の石涼、こっちは張白鶴の最期のお客様」
 いかにも難逃れのようにしか聞こえない言い方だったが、功を奏した。
 客人を無視してまで叱りつづけるほど石涼は失礼ではない。もちろん、少年はそれを承知で紹介したのだ。
「や、これは、どうも。はじめまして。石涼です。しかし、あなたも難儀でしたね。よりにもよって彼らの案内じゃ、かなり大変だったでしょう。いえ、ご心配にはおよびません。これでも一応、お客様に無礼を働くような輩は、うちにはおりませんので。ええ、想像はつきます。おおかた、ちゃんとした挨拶さえせずに連れて来られたのでしょう。ご心配もごもっとも。常識的に考えれば当然のことです。ただ、彼らはどうしても常識や一般論に収まってはくれないのです。私どもも、毎度泣かされています。……それはともかく、どうぞお入りください」
 愛想よく、元気よく石涼は挨拶し、男はこちらこそ、としか言えないまま、案内されることになったのである。