第1章 竜との遭遇 (4)

 どうやらこの死体、まだ生きていたらしい。
 一呼吸のうちに少年はすばやく男から離れた。
「……と、じいさんは……ダメだったのか」
 数回咳き込んだあと額に手をあてて、ぶんぶんと頭をふった男は周囲の惨状を目にしてポツリとつぶやいた。ケガらしいケガを負っていないのは、奇跡ではなく、彼の装備のおかげだろう。それにしても尋常でない体力、あるいは運の持ち主ではあるが。
 なるほど。こういう事態に備えての重装備だったのか、と少年は心中で頷く。
「それはともかく、返してくれ、俺のフレイア」
 多少よたつきながらも、男は立ち上がり、少年に手を差し伸べる。たどたどしくはないが、母国語がエリシュシオン公用語でないことは明らかだった。
「返してくれ」
 男はもう一度、繰り返す。反応を示さない二人を、交互に見比べて男は頭をがりがりと掻いた。
「随分練習してきたんだけど、もしかして通じてない。……それとも、谷では別の言語が使われてる?」
 彼の呟きはWS公用言語だった。
 宇宙からの客だ。
 ますますもって胡乱な、と青年の姿勢が語る。
 これだけの装備を整えられる者となれば、財力も立場も限られてくる。
 少なくとも、否応ナシに谷に逃げ込むしかなかった者ではないだろう。
 しかし当面の対応は少年に任せたのか、青年は一歩下がりただ男を観察するだけだった。
「ちゃんと通じてるよ」
 少年はWS公用言語で応じる。
「あ、君、わかるのか。W.S.言語」
 ほっとしたような男の声に、少年は軽く笑う。
「まあね。あんたのエリシュシオン公用語より、うまいだろ。ついでに言うと、川山椒じゃなくて、皮算用」
 ああ、と頷きながら、男はそのしゃべり方に軽い驚きを感じた。
 なぜなら少年のWS公用語は、砕けてはいたけれど間違いなくセレクトの使用する特徴ある発音だったからだ。
「じいさんの孫?」
 白王獅子を自分の肩越しに親指で差して男は問う。張白鶴のWS語もセレクトの発音だった。
「うん、まあ、そんなとこ。血縁はないけどね」
「そうか」
「で、あんた、何しに来たのさ。あんなぼろぼろの白王獅子に乗ってまで、何しにきたのか、俺、すごく興味あるんだけど」
 唐突に本題に入った少年に男は実に誠実な答えを返した。
「そうだな。あれに乗るときは、本気でためらったよ。でも乗らなきゃ会えないって言われたんでね。……花竜(ファルン)に会いに来たんだ。頼み事があって」
「花竜に……」
 少年は反芻した。そして首を振った。
「これは純粋に親切心で教えてあげるけど、その名前を気軽に口にしないほうがいいよ。花竜は確かに一流の組織をもってるけど、『谷』じゃ浮いた存在だし、殺したいくらい憎んでるヤツも少なくないんだ。俺は偶然にも敵対組織の人間じゃないからよかったけど、もしこれが俺たちじゃなかった、あんた今ごろ本当の死体になってるよ」
「そうらしいな。じいさんに聞いた。それと、白王獅子に乗って『谷』に赴く以上、九割九分、花竜に会うためだということを『谷』中の人間が知ってる、ともね。だからいつ、落とされても仕方のないこと、それでも来る意思のあるヤツしか会えないこと。特に今日のような根回しの出来ていないときは、ってな」
 覚悟の上さ、と男は言い、笑った。
「ふうん。でも、どこで花竜を知ったの。そう簡単に聞ける名前じゃないでしょ」
「首都パーシアーナで、……その、アルキュオネスってわかるか」
「首都随一の花柳街だろ。『姫』でも、買ったのか」
『姫』というのは、芸妓、いや有態にいって高級娼婦のことだ。かつてはE.S.の一地域において、太夫、天神などと呼ばれていたのだが、それをW.S.でも通用する言語で表現しようとしたときに、適語が見当たらなかったためた『姫』と言われるようになった。古来、舞姫や歌姫と呼ばれるものたちが、一方では売春婦であったこともよく知られた事実である。ただ、なかでも姫と呼ばれたのは限られた者であり、一般の娼婦たちとは一線を画していたことも真実だ。また名高い『姫』の権威は夜を統べるとも言われている。
「って、何で知ってるんだよ。まだガキのくせに」
「当然さ。だって、うちだってアルキュオネスにいくつか城、持ってるもの。俺はまだそんなに行ったことないけど、おまえはわりとしょっちゅう行ってるよね」
 どうしてそこで俺に話をふるんだ、と青年は少年を小突いた。城というのは、『姫』の在籍する店のことである。
「わかってるよ。情報収集のためだろ」
 世界の権威と呼ばれる者たちが、その私的な会見の場に姫を侍らせることは多い。もちろん、姫はその場で見聞きした事を他者に漏らすことはなく、城はその商い柄、プライバシーの保護に充分な配慮が成されている。会見室より、自宅より城は安全で、かつ教育の行き届いた姫たちがその席を守るのであれば、これ以上の密室はない。善良な一般市民が聞けば卒倒しそうな金額を城に納めても、安全な環境の確保には代えられないというのも頷ける。
 二人の年長者をからかった少年は、満足そうな笑い声をあげた。「で、誰から聞いたの。張白鶴のこと」
「かいつまんで言うと、アルキュオネスの裏通りで『姫』が揉め事に巻き込まれててさ。これは放っておけないな、と思って、仲裁にはいったんだ。最初は姫だとは思ってなかったんだけど、まあ、結果的に相手の野郎叩き伏せちまった。お礼に、と誘われて、こっちもどの店が信用できるか見当もつかなかったんで、彼女の世話になることにした訳だ。『月亮(ユェリャン)』の花紫(はなむらさき)さん。で、花紫さんが教えてくれたのが、花竜。で、張白鶴に紹介してもらった」
 月亮は花竜後宮と呼ばれる城の一つだ。E.S.系の美女揃いと名高い。なるほど、と頷いて少年は言った。
「ふうん、そう。花紫の紹介なんだ。ところで、『月亮』の支払は、どうしたのさ。あんた、すっごい金持ちそうだけど、この上、花竜への支払できるの?」
 用件にもよるけど、安くはないんだよ。
 言外に、花竜は安い仕事は受けない、と言っている。
 男は実に言いにくそうに、躊躇ったあと、小声で言った。
「花紫さん、御代は結構です、って、受け取ってくれなかったんだよ」
「ええっ? じゃ、まるまる一晩タダだったの?」
 酒代も、食事代も、床入りも? 花紫もやるなあ、と少年は口も目もまん丸にして驚いた。
「知らないかもしれないけど、花紫はアルキュオネスで五指に数えられる姫なんだよ。きっちり会計してたら、きっと、あんたそのエラキストンのスーツ、手放してたかも」
「そんなにするのか」
 男の声がうわずった。少年は、うんうんと二度、首を振った。
「だってさ、一見さんお断りだもの。あそこは。ようするに、支払いが出来る客しか迎えないの。その支払いもリアルマネーでぽいぽいって払える単位じゃないよね。あんたは金持ちそうだけど、そこまで持ってそうでもないし。どっちかっていうと、持ってるのはあんたの親ってカンジ?」
 苦笑まじりに頷いた男はおどけた調子で言った。
「まさかと思うけど、あとで請求されたりしないよな」
 だが顔色が青くなっていることが容易に判別できるくらいその声には動揺が混じっている。
 今、親父に立て替えてもらうわけにはいかないんだよ。手持ちが足りない場合、分割でもいいんだろうか、いや、それは情けないな、と思考がそのまま声にされている。
「大丈夫でしょ。その場で受けとらなかったってことは、花紫の心遣いさ。今さら請求書が届くことはないと思うよ。あんたのことが気に入ったんだろうな、彼女」
「……ほいほいとついてきた馬鹿なオトコを気の毒に思っただけだろ」
 請求書が届く事はないと知って、男は多少安心したようだった。が、花紫の好意云々については自惚れることなく苦笑いとともに否定した。
 男をそれまで観察するように眺めていた青年が口を開く。
「で、どうするんだ」
「うん、基地にご案内、でしょ」
 当然のように返答した少年に、青年は少し考えてから応えた。
「依頼の確認は、いいのか」
「どうせ、ここで聞いたってしょうがないでしょうが。受けるか受けないかは、独断できないし」
「まあ、そうだな」
 二人の会話は、WS言語だったため、男にもその内容は理解できた。
「ご案内、て、もしかして『花竜』の知り合いなのか、君たち」
 まだ、子供じゃないか。
 辺りはもう、相当に暗く、詳細な容貌はわからない。それでもシルエットとその声から判断するに、少年はせいぜい十五歳。青年もおそらく自分より年下だろう。
 もういちど少年を見、青年を見て男はあらためて驚く。こんな年若い者まで、谷の組織に属しているのか、と。
「知り合いもなにも」
「花竜のこと、何にも聞かされてないの? 張じいさん、説明も何にもなしで、あんたをここまで連れてきたってこと?」
「そういえば、聞いてない。……自覚なかったけど、俺、かなり焦ってたみたいだ」
 呆然と、としか表現のしようのない声で、男はつぶやいた。
「怪しい、とか、考えなかったってわけだ?」
「今思えば、迂闊だったと……」
 世間知らず、と少年が男を笑った。
「それとも命知らず?」
「そうだな。前にも言われた事があるよ」
 男は気にする風でもなく、さらりとかわす。
「もし俺たちが『花竜』の組織のものでなかったら、どうするつもりだったの。こんなところで」
「道案内くらいは、頼めるかな、と思ってたけど。いや、もちろんシティへの」
「あらためて、出直すってこと? ……よかったねえ、俺たちに会えて。だって、張白鶴は死んじゃったし、出直してたら、たぶん、花竜の基地には行けなかったと思うよ。それにここで死んじゃったんじゃないかな」
 海は越えられないから、と少年が言う。
 上空から見た美しすぎる海を思い出し、男は笑う。
「あ、やっぱり泳げない海なんだ」
「泳ぐ? シティの縁に手が届く頃には骨だけになってるんじゃない?」
「骨も残るかどうか怪しいものだ」
 なるほどと男は笑う。
「試す前に聞けてよかったよ。俺の運も、まだ尽きちゃいないってことだな。正直、墜落の瞬間はもう、死ぬと思ってたからな」
「うん、俺もてっきり死んでると思ってた」
 少年はフレイアを男に投げて返した。
「ありがとう」
「依頼人、だからね」
 少年の声には、残念と、安心が絶妙にブレンドされている。それに気付いた青年が、小さく笑った。
「何」
 問う男に、青年は言った。
「依頼人が無事でよかった、と、その銃が欲しかった、と両方なんだろう」
「ああ、そういうことか。じゃ、やるよ」
 簡単に言ってのけた男に、少年は飛び上がって振り返る。暗がりでもわかるその動きに、男は笑い声をたてる。
「いいよ。今回のこの件が片付いたら、もう使わないつもりだし、欲しいなら、やる」
 あまりのことに声も出せないでいる少年に代わって青年が問いを発した。
「……つまり、それは成功報酬としてフレイアを手放すほどの価値のある依頼ということか」
 そうか、そういう解釈もできるか、と男はまた、小さく笑った。あたりは暗く、男の表情の仔細まではわからない。
「そこまで考えてなかったな。代金は別に用意してはいるけど。俺にとって不必要になるものだから、いいか、ってね」
 男はどうでもいいことのように言った。おそらく、本当にどうでもいいと思っているのだろう。何の感慨も見せずに、彼はフレイアを腰のホルダーに片付けた。不信げに首をかしげた少年は、しかし問い返さなかった。なぜなら、目下のところそれを正すより重大な事実を発見したからだ。
「あっ。今、何時」
「23時25分だ」
「うわあ。……細かい話は本当に後にして、とりあえず帰ろうよ。俺はこれ以上叱られる原因を作りたくない」
「今更、とは思わないか」
 青年の声には達観した響きが在った。もう、充分に小言を喰らう覚悟でいる。
「うん、でもね、シーリャンは原因の二乗くらい説教してくれるから」
「今日は丸一日、小言の原因ばかり作っていたからな。一ヶ月は勘弁してもらえそうにないな」
「そう、だから四ヶ月間、叱られつづける羽目になる前に、帰りたい」
 一日26時間、一年342二日。朝帰りになれば2日52時間の二乗。なるほど、四ヶ月か、と男は検算する。
「あのさ、ほんと、申し訳ないんだけど、基地まで歩いてもらえるかな。大丈夫?」
「構わないよ。多少ゆっくり歩いてもらえれば。重傷負ってるわけじゃないからね」
 あれだけの事故に遭ってなお、しっかりと自分の足で歩ける男。こいつはいったい何者なんだろう。
 かすかな不振と危惧を抱きながらも、青年は、ことばに出して問う事をしなかった。なぜなら少年が連れ帰ると決めたからだ。決めた以上、何をどう示唆しようと最終的に少年が聞き入れないことを青年はよく知っていた。
 この場で、命令系統がひとつではないことを正体不明の男に悟らせる必要もない。
 邪魔になるようなら、自分が責任を持って処理すればいいだけのことだ。
 そう結論付けて、彼は少年と男の後について、基地への道のりを歩き始めた。夜目の聞くその色違いの瞳で、男の一挙手一投足を観察しながら。