降りる、というのは、登るの反対だ。したがって、登れないところを下に向かって移動する行為は落ちるという方が正しい。
ともかく砂塵にまみれながらもなんとか無事に谷底に降り立った二人は、白王獅子の着陸予想点へ急いだ。遠い昔に水の涸れた川底を2キロ程走る。
日はすっかり地平線の向こう側に行ってしまったわけではないが、谷に下りたことで、一足先に夜の領分に入ってしまった。
太陽の残光に、両の岩壁が煌きを放つ。ふんだんに石英を含むこの谷の岩は、黄昏の一時が最も美しい。星のように水晶が瞬いている。
前方で川は唐突に途切れ、さらに深い谷に吸い込まれていた。
滝、である。もちろん水の涸れた現在、滝と呼ぶのはふさわしくないのだが。
落差176メートル。この星の滝としてはさほど大きくはない。
二人は滝の手前15,6メートルで白王獅子を待った。
「来た」
準垂直離着陸型、かつ軽量のPGには充分すぎる広さを持つ滝壷は、天然の格好の発着場だった。
切り立つ岩を回避しながら、徐々に高度を下げ白王獅子は近づいてくる。
「いまさら、なんだけどさ、ほんと、よく落ちずにとべるよねえ」
「100年も前の最新型が、動いていること自体が驚異だ。ところで、あれがいくらくらいするか、知ってるか」
「え? あんなスクラップ、買う人、いるの」
「買い手がいなくては、値はつかない。それにあれは通常のPGじゃない、開発者のオリジナルとなればさらに値は上がる」
「コレクター連中の感覚は、俺にはわかんないよ。俺は実用重視」
肩をすくめる少年に、青年は同意する。そして続けた。
「たとえば、だが。40億年まえの化石になってるはずの原始生物が生きていたら、という扱いだ」
「凄いことはわかったけど、現実にいくらなのさ」
「首都の花柳街で一生が過ごせる。たぶん、それが3回は可能だ」
少年はぶつぶつと口の中でつぶやきながら、換算した。
「えっと、……店のランクは」
「上級」
「花街で一泊遊ぶと、遊びの内容にもよるけど、ごく普通の人の一か月分の収入の半分くらいは飛んでっちゃうから、ええっと、上級の店だからその6倍くらいの100万だとして、それが1年で342日。青年期から死亡までを70年とする。それが3回だから」
ごくり、と少年の喉がなった。
「718億……」
「ただし、エリシュシオン公用通貨で、だから、連邦通貨で換算するともう少し、安くなる」
「白王獅子売って、最新型の大型宇宙挺が80台は買えるってことだよ。なんでそんなに冷静でいられるんだ」
「俺のものじゃない。どんなにいい値がついても、所詮他人事。それに張白鶴はあれを手放す気はないだろう」
「そりゃ、そうだけど……ふうん、張白鶴の白髪頭と生きた化石か。お似合いだよね、やっぱり」
呆けたように白王獅子を見上げる少年に、青年は笑った。
「いくら張白鶴でも、白王獅子と比べるんじゃ、気の毒だ」
そうして笑うと、青年の顔は実に魅力的だった。あまりにも整いすぎて、かえって人を遠ざける美貌が、やわらかく変化する。彼をよく知る者ならば、驚天動地の衝撃を受けるだろう。なぜなら彼は彫像のように美しく、そして塑像のような鉄面皮だったので。
しかし少年はごく普通に笑顔を返しただけで、貴重な笑顔に見惚れる様子もなく、視線を白王獅子に戻した。
その瞬間。
滝の底から突風が吹き上げた。
日中熱せられた岩で暖められた空気が、夜の冷えた大気を裂いて上昇する。小柄な少年が、数歩よろめいた。
「……まずいな」
少年を支えた青年が、小声で言う。
白王獅子は今、滝に入ったばかりだった。吹き上げる気流に翻弄されている。
「フェイ、離れるぞ」
少年を抱えたまま、後方に移動しようとする青年の腕を振り切って、少年は滝の際まで駆け寄った。
「……っきしょう。風、動くなっ」
乱暴に声を張り上げた少年の言葉に、まるで従ったかのように風が一瞬途切れる。しかし、
「フェイ、だめだ、下がれ」
青年が叫ぶのと、ほぼ同時にそれは起こった。
白王獅子の片翼が、剥がれるように飛び散る。気流にのって舞い上がる破片とは逆に、白王獅子はバランスを崩し、震えるように空中に留まったあと、機体を大きく傾け。
落ちた。
青年は瞬時に駆け寄り少年を小脇に抱えると、飛ぶようにして滝から離れる。
伏せた身に大地が振動を伝え、鼓膜を破るような衝突音が響く。刹那の沈黙の後、青白い閃光が走り、直後滝の底からオレンジ色の光が立ち昇った。異臭を含んだ熱風が吹き付け、青年は礫のような破片から両腕で包み込むように少年を庇った。
青年の腕を押し退けて顔を上げた少年の目に、火柱が鮮やかな線を描いた。
火勢がやや衰えたころ、少年は切り立った谷の際までゆっくりと進んだ。膝をつき、両腕で崖の端をつかみ、白王獅子を見た。機体は炎と煙に隠されて、見ることができない。
覗きこむ彼の目に、熱気と黒煙がしみる。
「だから、言ったのに……。落ちる前に、換えろって」
滲んだ視界に、張白鶴の皺顔が浮かぶ。
「もう、こいつ、限界だぜ。じいさん。金がないわけじゃないんだろ、船体くらい換えろよ」
数年前、青年が修理する白王獅子の傍らで、少年は張白鶴にそう言った。
「動くうちは使える。それにこれを乗せ換えることのできる船体はなかなか手に入らんよ」
いやいや、と首を横に振りながら、老人は微笑む。
「これ、って?」
「こいつの脳みそだ。適合機種がない。なにせわしの曾祖父の特別製だからな。名前は」
少年の耳に口を寄せて、老人は小声で言った。
「ジョーカー?」
「切り札、か。そう聞こえたか。……ふむ、間違いない。そうだ、こいつは切り札だ。大切な」
顔中の皺が、笑みを刻んだ。
「バカヤロー。動かなくなったら、墜落するんだよ。飛行艇は」
「フェイ、下まで降りてみるか」
あらかた火も消えてしまったため、あたりは暗がりに支配されている。淡々と話す青年の表情は声からでは分からない。通信機に向かい、白王獅子の墜落を知らせオオトカゲの回収を頼んだ青年は、その場を動こうとしない少年に付き添いずっと立っていた。
「行く。降りて、たしかめなくちゃ」
少年は思いのほかしっかりとした声で応え立ち上がった。
「張白鶴が何のために来たのか、確認しないと」
「わかった」
青年はバッグからロープとピックを取り出し、無駄のない手際で岩に固定した。自らのベルトにロープを軽く括り、少年に手を差し伸べる。
「行くぞ」
少年を肩につかまらせると、いとも簡単に、水の涸れた滝壷へと降りてゆく。途中で数回、岩壁を蹴っただけで、あとはほとんど止まらず、滑るように降りていった。
わずかに残る火が二人の影を地に映す。しかし燻り続ける白王獅子を遠目に、少年は動こうとしなかった。しかたなく青年が調べ始める。まだ熱い機体には触れることが出来ない。外側から見える範囲を、慎重に青年は検分し、少年に告げた。
「外装のほとんどは、ハリボテだな。飛行補助プログラムと、機体データが一致しないことは以前から知っていたが……。おそらくこれの素性がわからないようにとのカモフラージュ。本体のデザインはそれでも普通のPGと若干違う、か。この装甲に、この材質。姿勢制御、衝撃緩和プログラムの機能の程にもよるが、燃料を使わないタイプの機体ならば、無事だった可能性は大きい」
「そうだね。これだけ形を留めてるんだから、火がでなかったら、きっと無事だったね」
その装甲が、張白鶴の脱出を妨げた可能性には、二人とも触れなかった。
「白王獅子、白くないね」
「煤を落とせば白い」
「でも、もう、磨く人、……いないから」
少年は少しだけ笑った。いや、その声の震えは嗚咽だったのかもしれない。
「世界一高い棺桶」
「そうだな。で、どうする」
「白王獅子のこと?」
頷く青年に少年は即答した。
「基幹データが無事なら、いただく。船体は白狼に作らせればいいと思う。技術的には不可能じゃない」
一瞬、目を伏せた少年は、視線を上げると青年に告げた。
「白王獅子の人工知能は、テラの影響を受けない。世界でただ一つの人工「知性」だ、って張白鶴は言ってた。約束だったんだ。いつかは、くれるって」
こんなに早く、いつか、がくるなんて思ってもみなかったけど。
少年は燻る白王獅子を見つめそう言った。
大切な、大切な切り札だと言って、張白鶴は少年の頭を撫でた。いつか、自分が死んだときは、おまえがこれを継ぐんだと……。
「誰かに、その話をしたか?」
「まさか」
「そうか。だが……それが本当なら、張白鶴は、いや、張敬秀は、反逆者だ」
青年は静かに言った。
マザー・テラ。
地球を母星とする惑星連邦を統括する人工知能。
異性人との邂逅により、母星を共にする者同士での利権争いの愚かさに気づいた人類は、W.S.、E.S.の壁を超えて、共に歩む道を模索した。だが、双方の間には、異文化の溝が横たわっていた。文化の違いは思想の違いであり、それは生き方の違いだった。共に生きる、と言う一点において互いが一致しても、生き方の一致をみることは非常に難しかったのだ。それぞれに第一義に掲げるものがあり、それは魂のあり方にもつうじていたから。
それを理由に、かつては物別れを繰り返すことができた。しかし、それが容認される状況でない現実がある。どちらかといえば、宇宙での地球の立場は、第四世界と呼ばれていた未開発、低科学水準の域にあった。できる限り速やかに、その状態から脱却する必要がある。だが、どちらが主導しても、一方には常に不満が残るだろう。
そして、テラは生まれたのだ。
全ての一致、全ての満足が不可能ならば、より多くの人類が納得できる環境を造り出さなくてはならない。そのために、マザー・テラは誕生した。多数決、最大公約数の妥協的幸福を目的に、W.S.、E.S.の技術者が集まり、日に夜をついで製作した。ごく自然な愛国心と、平和を願う純粋な熱意で。
そして、以後連邦内で製作されるコンピューターは、すべてマザー・テラの監督下におかれたのだ。
生活のあらかたに人工知能が関与している世界では、それを統括することで、全ての情報を管理できる。しかも、私心のない人工知性がそれを管理するのであれば、漏洩も目こぼしも心配はない。僅かの選ばれた人間(セレクト)が、マザー・テラの補佐をすればよいのだ。主に、メンテナンスのために。
張白鶴の曾祖父、張敬秀は、マザー・テラの統治に否を唱えた最初のセレクトだったのだ。
「うん。張白鶴の曾祖父さんが追放された本当の原因は、それだと思うよ」
少年は白王獅子を見つめたまま、頷いた。
「張敬秀はそのまま行方をくらませちゃったし、出てくる気配ないし。だからね、俺は彼の母親の死にも、疑惑を持ってる。テラの指図じゃないかって」
「指図」
「張敬秀を、ううん、自分から完全に分離した知性を持つ人工知能、白王獅子をつかまえるためさ。母親の死に、無関心でいられる人間はいない。張敬秀が姿をあらわすかもしれない、って考えたんだろ。でもね、彼はきっと、逃亡するときにはもう、今生の別れってのを済ませてたんだと思う。二度と会わない覚悟で選んだんだよ。自分が生きること、テラの制約を受けない人工知性を育てる事を。だから、テラのもくろみは成功しなかった」
「白王獅子を継ぐ、ということは、おまえも反逆者になるということだ」
青年の指摘を、少年は笑い飛ばした。
「反逆、っていうのは、一度でもそれの保護をうけたヤツが自立するときに遣うことばさ。俺は初めからテラの庇護下にはいないよ。なんの遠慮がいるのさ。それに、白王獅子の処遇については白狼の意向も聞かないと。爺さんのただ一人の身内なんだからさ。彼が白王獅子を継ぐなら、それもいい。俺はそれを支持するよ」
青年の返答はない。微笑む気配はあったが、賛同を示すというよりは皮肉気である。
しかしそれには構わず、少年はのんびりと移動した。テラの保護を受けないことにも、テラの支配下にない人工知能を手に入れることにも、特に少年は拘泥している様子ではない。
「ね、やっぱり、客を乗せていたみたいだよ」
十数歩、歩いて立ち止まった少年は、白王獅子の機首から数メートル離れた地点に転がる死体を指差した。墜落の衝撃で投げ出されたのか、そこには大柄な男が倒れている。不思議な事にあれだけの惨事に遭いながら、その死体は原型を保っていた。墜落の衝撃で幸運にも、外に投げ出されたのだろう。もちろん、幸運というのは船内の張白鶴が炭化している(だろう)事に比較して、だ。
「ふうん。なんだか、毛色が違うなあ」
少年はつぶやきながら死体のほうに歩み寄る。
「擁焔の客か」
「ううん。何ていうか、コギレイな感じ。権力や栄誉とは、接点なさそーな」
その理論では、権力や栄誉と親しい人間は小汚いということになるな、と言いながら青年は少年の隣に立った。
「小奇麗かどうかは別として、たしかに権力や栄誉と縁のありそうな雰囲気じゃない、か。しかし、金に苦労しているようでもないな」
そして検分を始めた。
「スーツはエラキストンの耐熱耐衝撃グレードS、アルバーダの耐熱ブーツ、グラス・スコープはベーリー・オルクスか。グラブはカヴィア……随分な派手な出で立ちだな。ブランドはもちろんだが、この重装備。戦地に赴任する兵が泣いて羨むだろう」
どこへ出陣するつもりだったのやら、と青年は言う。金にまかせて不相応な装備を身に付けている男への嘲笑の響きが篭っている。
「どちらの若様、か」
彼が死んだことで持ち込まれるだろう厄介を思ってか、青年の口調には好意的ではない。
「ま、確かに戦場だけどね。ここは」
「それでもだ。フェイ、あの銃が見えるか。あれはウラガーン・クルイーク社の人工知能搭載ハンドガン、FL.aR‐10.004。通称フレイアだ。オーダーカスタム。個人識別機能付、白王獅子を売っても140丁しか買えない代物。ケタが三桁は違うだろう、普通の高級品とは」
示唆される事実に、少年の声の調子が変わった。固い金属的な響きを帯びる。
「……そんな大物が、何の用があってここへ」
確かめようにも、事情を知っていそうな張白鶴は白王獅子のコクピットで炭になっているし、こいつは死んでる。どうする、と眼差しで青年に問い掛ける。
「さて」
『谷』は公然の無法地帯だ。アウトローの吹き溜まりとも言われている。
ここを訪れる者の大半は、法の裁きから逃げ出した者か、法の裁きに見切りをつけた者。
公にすることのできない事情を持つ者が、最後の頼みの綱として、エリシュシオンの谷へとやってくる。報酬次第では、マザー・テラさえも敵にすると言う、谷の組織のうわさを聞きつけて。
「死んだ人に、必要ないよね、こんな装備」
剥がして、売っちゃってもいい?
続けられた言葉からは、硬さは消えている。
「多少の潤いにはなるでしょ。ひと月くらいは食いつなげるんじゃない?」
青年はやや満足げに頷く。
「よし、じゃ、さっそく」
「ただし、そのフレイアは、ダメだ」
つかつかと死体に歩み寄り、真っ先にフレイアを手にとった少年に、彼は注意した。
「なんでさ。一番金になるのに」
「そいつが依頼人の可能性があるからさ」
依頼人の所持品を売り払う汚名を着ては、これから先、いい仕事はこなくなる。
「張白鶴が死んだ今、評判だけが頼りだ」
「足がつきそうなものはダメ、か」
「正解」
「じゃ、俺がもらっちゃおうかなあ。識別調整、できるかな」
「難しいと思うぞ。白王獅子にならできただろうが、彼女自身が今は調整を必要としている」
「あー、やっぱりそういうことになるか。……白狼にはできないかな。ダメなら石涼とか」
「十中八九、無理だという」
「じゃあ、どうしても白王獅子には治ってもらわないと」
未練たっぷりの少年に、青年は堪えかねた様子で短く吹きだした。そのまま笑い出すかと思われたが、途中で声が失われる
「そういうの、『獲らぬ狸の川山椒』っていうんだろ」
などと、わからぬことを言いながら、少年の足元の死体が起き上がったからだ。
眼前の二人の放つ敵意と殺気をまるで気に止める様子もなく、悠然と身を起こした「死体」は、傍らに立つ少年に手を伸ばした。