序章 人

 荒れ果てた大地に人影が二つ……

 その星をエリシュシオンと呼ぶ。第五十一銀河第十七星系第四惑星だ。
 その大地を上空から見下ろせば、延々と赤土色の大地が続く。日に晒された荒野には熱い風が吹く。
 エリシュシオン……楽園の名にこれほどふさわしくない場所もなかろう。
 赤い大地。どこまでも青く、透明な空。そして濁ることのない海。この星から先住の生命が消えて久しい。
 はるか大地の果てまで続く赤い岩山と沙漠が、その昔は豊かな草原だったなどと、誰が信じようか。
 歴史学者は言う。果てを考えられぬほどに広大な緑の地が、この星にはあったのだ、と。
 生命の息吹濃く薫る風に草原は穏やかな波をつくり、紺碧の空から降りそそぐ淡く優しい光に、草波は翡翠色の輝きを放っていた。四季の変化がありながら、なお常緑のその星は、常春の楽園。碧に光る宇宙の宝石だったという。
 その温かな輝きに魅せられたたくさんの人々がこの星を訪れた。それはただ、純粋な憧憬からのことではあった。いまはもう、過去の記録でしか見ることの叶わない”自然”を恋う、愚かでも愛らしい思いだったのだ。

 だが人は愚かで、愛らしく。
 なによりも貪欲だった。

 葦由という画家がいた。彼は後世に伝わる素晴らしい作品をいくつか残しているが、その絵よりは自伝のことばによって、人々に名を記憶されている。「この世界をどのように巧みに描こうとも、それは美女のまつげのみを描くことと変わりない」
 彼はこの星を訪れた後、筆を折ったという。
 当時キャンパスに絵の具で絵を描くことはすでに古典芸術になりつつあったが、その第一人者である葦由のことばに、多数の人間がこの星を訪れることになった。

 一目見たいと願うその思いに、悪意の混じろうはずがない。しかし願望と欲望は互いに切り離すことができない。
 やがて無数とも思える人間が、ここを訪れるようになった。その中には葦由と同じような画家もいたし、フォトグラファーもいた。光景をシンフォニーにしたいと願う音楽家もいたし、詩を編みたいと思う者もいた。彼らは挙ってこの世界を表現しようとし、誰一人として成しえなかった。その証拠に、ここを題材とした作品はただのひとつも残されていない。
 作品ではないが、ことばがもうひとつ残されている。
 K.レンブラントという言語学者のものだ。このことば以外に彼の業績は残っていない。 「これをことばと成せる言語はなく、おそらくは形と成せる芸術も存在しない。だが、わたしは敢えて言う。これこそが、まさに、美しい」

 けれど今、眼前に広がるのはただ赤い大地だ。花一輪咲くことなく、草一本生えぬここが楽園と呼ばれたのは、もう数世紀も以前のことだ。
 旧暦(地球暦)三世紀後半から興った惑星開発は、その七十年後には太陽系から近隣の他星系、そして他銀河へと広がっていった。四世紀初頭には実現は不可能と目されていた空間跳躍(現在では開発者の意向によりデルタ・ドライブ、DDと呼ばれている)の完成にともなって、多くの惑星を発見し、開発、入植、移住が行われた。この時点ではまだ、母星を共にしない種族、つまり異星人との邂逅はなかった。広い空間を移動する術を手に入れた彼らにも、宇宙は広大に過ぎたのだ。
 今はエリシュシオンと呼ばれるこの星が発見されたのは、宇宙大航海時代と名づけられた惑星移民最盛期だった。そのころ地球はES(イーストサイド)とWS(ウェストサイド)の二つの勢力に分かれて覇権を争っていた。発見したのはESで、当初ここは”桃源”と呼ばれたいたが、その後の惑星植民地戦争の第五十一銀河第三大戦に破れたESからWSに利権が譲渡され、以来”桃源”をWS風に言い換えた”エリシュシオン”の名で呼ばれるようになった。
 しかし。
 エリシュシオンの移住惑星としての大々的な開発が行われるようになると、その雄大で筆舌に尽くせぬ美しさも、徐々に、やがては加速度的に失われていった。無節操な開発が、豊かな大地を殺し先住の生命を根絶やしにするのに、半世紀を必要としなかった。止まることを知らぬ勢いで、人は楽園を貪り、喰い尽くし、砂と塩の世界を構築していったのである。
 岩肌に張り付く都市の残骸にも、かつての姿を想起させることはない。

 母なる大地が死に瀕すると、人は彼女の元を離れた。
 夏は灼熱に、冬は極寒に支配される内陸よりも、沿岸部のほうが幾分傷みが遅かったのかもしれない。
 現在はアクアポリス――大陸沿岸部に点在する海上都市――に、人々は暮らしている。
 赤く乾いた大地と、青く澄んだ海の狭間の泡沫の世界である。
 赤い大地を抜けると、眼下には澄んで美しい海が広がる。
 まるで蒸留水に顔料を溶かしたかのような、それは見事なまでの青。
 命の気配は感じられない。

 高度を下げるとともに、泡のようだった都市が大きくなる。
 衛生的かつ快適。外界からは全く隔てられた安全な都市。
 機械化されたガラス張りの世界には「善良な市民」が、飼育されるように生きている。

 庇護する腕をもがれた母のもとで……荒れた赤い大地に生きる彼らとは、両極を成す存在だった。