風紋 ― 風は史書に語られぬものを謳う ―
フィル=シンの覚書
エルディア十五代国王がサキスの父です。
この人の妃が多いことが関係を複雑にしているかと思います。
当時のエルディアは多妻を特に咎めることはありませんでしたが、これは極めて異例です。
まずはそのとてもわかりにくい十五代の王とその家族について解説を。
【第十五代国王とその家族】
イルガ・ファムを娶り即位した時、彼にはすでに妻が在り、二人の娘がいました。
既婚者が新たに王の娘を娶り王位に就く、という事例は、彼の他にはありません。ちょっと気になるところです。この経緯については、追々調べてゆきたいと思います。
彼とイルガ・ファムとの婚姻により、それ以前に彼の妻であった女性(第三妃)は自動的に寵妃という扱いになりました。
第三妃、という呼称は、後年史学者たちにより便宜上付けられた符号であり、史書では単に「王の妃」と記されています。
これが第四妃を第三妃の誤記とする説の所以です。
第四妃は「王のもう一人の妃」と記されているのですが、この記述が「正妃、次妃、寵妃、もう一人の寵妃」なのか、「正妃、次妃、もう一人の寵妃」なのか判別が難しいのです。
他の王の史書と比較しようにも、複数の妃を持つ王は他に二例のみ。どちらも正妃のほかに一人の妃を持つだけなので、お手上げ。
今後発見される文書に期待するしかありません。
第三妃の出自にも曖昧な点が多いことも、一層、複雑感を増す要因となっています。
昨今では「第三妃は王族ではなかったかもしれない」という声も聞かれるほどに、判然としません。
前述の図が正しければ、彼女はファ・シィンの従姉ということにもなるのだけれど。
(余白の都合上、図には載せませんでしたが彼女には二人の兄がいます。イデルナート公、イデルナート伯と呼ばれています。イデルナートはイーダ・エルニティス・アート「木陰に佇むエレニアの」と綴られます。チェリシェスの妹がエレニアと約められる名であれば間違いはないのでしょうが、残念ながらチェリシェスの「妹」の名は史書に確認することができません。「妹がいた」ことは明らかなのですが、それがイデルナートの母である証明がありません。また十五代国王の兄とされる彼らの父親も同様に不明です)
さて、イルガ・ファムの死後、ファ・シィンが次妃として迎えられるにあたり、妃の位は順送りに下がります。
正妃の死去の後に迎えられたのですから、本来ファ・シィンは正妃であるべきなのですが、何故か次妃という形で史書には残されています。
花傑伝にはファ・シィンが亡き姉に敬意を表して正妃となることを固辞したとありますが、事実は不明です。
次は、十五代国王の子供たちについて。まず生年順に並べてみます。
参考までにエルディア滅亡時における年齢を()内に記しました。
第一王女(26):シャルハイン。母は第三妃です。彼女の夫が十六代国王となりました。息子が一人いました。
第二王女(20):母は第三妃です。名は残されていませんが、彼女の名をレンシアとする研究者もいます。
第一王子(16):アズライル。母は正妃イルガ・ファム。生後間もなく母を亡くし、ファ・シィンに引き取られました。
第二王子(13):母は第三妃。名は残されていません。
第三王女(13):サキス。母は次妃ファ・シィン。アズライルとは実の兄弟のように育ちました。
第三王子(12):母は第三妃。名は残されていません。
第四王女(11):母は第三妃。父、十五代国王の死後に生まれました。
総勢八人の子供が確認されています。
【王位継承権とその行方】
では次は、この子供たちの王位継承権について。
継承権は、母から娘へと継承されます。ですから、男児には継承権がありません。王位継承権を有しているのは四人の王女です。
第一位王位継承権所有者:第三王女サキス
第二位王位継承権所有者:第一王女シャルハイン
第三位王位継承権所有者:第二王女(レンシア?)
第四位王位継承権所有者:第四王女
の順になります。
ちなみに第五位は、サキスの祖母・ルーシエイラ太王太后の妹であるストゥーリア(ハン子爵夫人)が有します。
正妃となった者(一度継承権を行使した者)は原則として、別の王を選ぶことはできないからです。
ファ・シィンは次妃ですから、権利を執行できないことはないのですけれど、事実上の正妃として除外されていたようです。
サキスの従姉であるイルージアは母親がエルディアの王族ではないので、継承権を持ちません。
考えてみると、イルージアの父カルシュラート公はすごく王位に近い場所に居たのに、どうして王族の娘を娶らなかったのでしょうね。
彼の妻が継承権を持つ王族の娘(たとえば、第三妃)であったなら、十六代の王位は彼が継いでいたかもしれません。もちろん、生きていれば、なのですけど。
次に王位継承権を持たないアズライルが、なぜ十七代国王として即位できたのか、その経緯をまとめます。
まず、シャルハインの継承権は十六代国王に行使されましたので、失効です。
サキスは八歳でアルディエート公の子息と婚約をしましたが、その後婚約者が出奔。事実上の破棄ですが、議会はこれを認めなかったので、該当者不在、という扱いになりました。また、アルディエートの血を引くものは王位を継ぐことができません。仮に彼が出奔していなくても、サキスの継承権は無効となります。
次に、シャルハインの二人の妹ですが、第四王女は、キ・ファとの会戦直後熱病にて死亡。九歳でした。
第二王女は夫を戦で亡くし、継承権を放棄。(以降、サキスの即位までレンシアの姿を史書の中に見ることはありません。レンシアが彼女である確証はありませんので、ここも詳細を調べてみたいところです)
ストゥーリアの夫ハン子爵は、即位を辞退。辞退の理由は、面白いと言っては失礼なのですが、戴冠式に間に合いそうにないから。
(どうやら、ファーレントに出向いていたようです。その後エルディアに戻った)彼は、妻ストゥーリアとともにキ・ファ国の管理下に身をおきながらも、執政官としてエルディアの「底」を支えます。
こうして継承権はリセル・ターガに移ったのでした。
リセル・ターガの婚約者であったアズライルは、ファ・シィンの後押を受けて即位します。
在位期間はわずかに二ヶ月。もっとも短命の王でした。
【最後の王とその正妃】
アズライルは短命な王でしたが、有した権力は圧倒的なものでした。
そのひとつが、王にして祭主(官位では大神官)を兼ねる、というものです。
彼は生後間もなくファ・シィンに引き取られ、その手元で育ちますが、十歳でアルディエート女公の養子に迎えられます。
アルディエート女公は母の従妹、その夫は父の弟という極めて近しい間柄でしたので、出奔した嫡子の代わりに養子に迎えられたという説には説得力があります。彼以上にアルディエート公家に養子入りするに相応しい人物はいないのですから。
しかし、一方では、シェル・カンで暮らすファ・シィンに対する人質として王都に迎えられたのだとも語られます。
アルディエート女公は第十六代王の死後、家督をアズライルに譲ります。
アズライル、十五歳。史上、二番目に若いアルディエート公の誕生でした。
(一番若くしてアルディエート公家当主となったのはアルディエート女公です。彼女は十三歳で当主の座に着きました)
数日後、彼はリセル・ターガを娶り、戴冠しました。
その際の議会の反対を封じたのは、彼の親しい従姉カルシュラート女公イルージアでした。
それまで有力な王族でありながら政には一切感心を示さなかった彼女ですが、王都四師、及び東軍(ランガ陥落後は王都に本部を置いていました)を掌握するまでに要した時間はわずかに三日。また、彼女の靡下の将の多くは議員の子弟でもあり、父や兄の戦死後、議員に就いた者も少なくはありませんでした。
さらに彼女は祖母ルーシエイラ太王太后死去の際、その所領と権限の全てを相続ていました。
これにより継承権を持たぬ「枝の王族」でありながら、継承の是非を決定する権利を有する「幹の王族」として、イルージアは軍のみならず政の中核に位置することになったのです。
さらに正妃リセル・ターガがこれらの動きを頑強に支えます。
リセル・ターガはハン大老の孫。彼女はハン子爵家の令嬢であると同時に、母ストゥーリアから受け継いだシスティル(シ・ストゥリエル・イル「水鳥と戯れるストゥーリアの」と綴ります)公家の当主でもありました。
かつて祖父ハン大老の祐筆を務めた手腕で、彼女はアルディエート公の世俗での権利を拡大、名目だけであったイルギアム公領の実権の回復に務めます。
シェル・カン城のサキスもまた、兄アズライルの即位の支持を表明します。
十一代国王以降の有力な王の血筋が、ファ・シィンの指示により、ここに再度統合されるのでした。
リセル・ターガ、イルージアは、未だ根強く残る反ファ・シィン派をその権と力を背景にねじ伏せます。
第三妃の兄であるイデルナート公、イデルナート伯は、アズライルの即位以前は「王とも紛う」権勢を誇りましたが、これにより失脚。派兵された先で戦死しています。
歴史に「もし」は無意味ですが。
もし、ランガが陥落した二年前に、この体勢を整えることができたなら、エルディアは滅ばずに済んだようにも思います。
以上。
また新たにわかることがあれば、暫時記述してゆきます。