ドライブついでのお買い物。
お買い物もすごく楽にできるようになりました。
なんといっても、若さまが歩けることは大きいです。
去年の今くらいと言えば、寝返りしたかしないかくらいですから、全行程抱っこでした。
レジでの支払いのもたついたことといったら。
それが夏ごろからはつかまり立ちで待っていてくれるようになり、今やお手手つないで待っていてくれる。
これは本当にありがたいです。
ただ、欲しい物があると手を振り切って走ってゆこうとしたり、その場から離れなくなったりで、別の大変さもあるんですけどね。
そういうのもここ1年くらいのことなのかなあ、なんて思うともっともっと困らせてくれたまえよ、という気分。
ホワイトデーをすっかり忘れていたわたし。
どうもこう、贈るときは嬉々としてやるんですけども(嬉しそうな顔を見るのが好き)、貰うときは「ああ、そういえば」みたいなことになりがち。
もしかしたら贈られることへのありがたみが薄いからかもしれないなあ、などと最近は思います。
今日もプレゼントを頂いて、一瞬「なんだっけ、これ」→間をおいて「ああ、そうか」
褒められることじゃないんだけども、もらい慣れ、みたいなのかもしれない。
もちろん頂けばやっぱり嬉しいのですが、頂くまではまるで忘れきっていて(誕生日やら各種お祝いも)、「貰えるかな、貰えるかも〜? どきどき♪」といった初々しさや瑞々しさからはすっかり遠ざかっている感じです。歳だねぇ。
母のことは、ありていに言ってよくわかりません。
どうしてそういう思考になるのか、なぜそういう言動に至るのか、わたしにはまったくわからない。
ので、とても面白いと思います。見ていて飽きないなあ、と。
今日も何の用だったかしれない用事で電話がかかってきたのですが、話の終わり際に
「何か話したいことがあるの?」
これが問い詰めるような口調なら、いっそ、隠し事してるんじゃないの?という風にも受け止められるんですが(隠すほどのことはないんですけども)、なんというか、こう、
「なあに? なにかお母さんにお話したいことでもあるの? 聞いてあげるわよ」
みたいな感じ? それも幼子にいうような。
いや、話も何も、あなたから電話をかけてきたのでしょうが、と(笑)
そうそう。固定電話から携帯電話への転送を設定したから、試してほしい、みたいな話で母からかけてきたんですよね。
そういう状況で、わたしの側に、一体何の話があると思うんでしょう。
よくわからないなあ、と思いながら。
「ないです」
と答えたら、
「そう? ふふっ。話したいことがあるのね?」
「いいえ、ないです」
「ふふふっ。そう? それじゃあ話したくなったときにね?」
……
話が通じないってこういうことなのかなー、と。
予定がたくさんあってわたしってスゴイデショ、そんなわたしが他ならぬあなたのために行ってあげるんだから感謝してよね、と言いたかったのでは、と昨日の件について友人。
「忙しいのに付き合ってくれてありがとう、無理を言ってごめんね、って言ってほしかったんだよ」
それを聞いて「へぇ〜」
そういう発想がわたしの中には存在しなかったので、びっくりしました。忙しいのは本人の勝手だし。
というか、無理を言ってまで来て欲しかったわけでなし……。そう言うと友人曰く、
「『よかったら来る?』じゃなくて『お願い、来て?』って言われないと来れないタイプの人かもよ。ぜひにとお願いされたから行ってあげた、って形じゃないと参加しにくいって人。時々いるよ、そういう奥ゆかしいんだか図々しいんだかわかんない人。こう言っちゃうといやらしく聞こえるかもしれないけど、本人は無意識のことだし悪意もないし、もっぱら形だけでいいみたいだからそう言ってあげるといいよ。形を整えてあげるとこちらの想像以上に喜んでくれるよ、たぶん。ムードメーカーとしては抜群って人が多いから、大事にしておいたら?」
「へぇーっ」
……世の中には、まだまだ学ぶべきことがあるものだ、と思いました。
次にこういう機会があったら「ぜひ来てね」と「来てくれてありがとう」を言ってみよう。
昨日はもうコリゴリ、勘弁してと思っていたけれど、こういう風に前向きな気持ちにさせてくれる友人に感謝を。
わたしは本当に間接話法が不得手だと反省する本日。
知人に「来週出かけるからよかったら一緒に来る?」と声をかけました。
この問いかけに対する返答って「行く」か「行けない」の二つだと思うんですけども、ここから10分以上、彼女は自分の来週の予定を早口で語ってました。雰囲気的にはこんな感じ。
「※月曜日は午前中に〜〜で、午後からは〜〜、火曜日は〜〜で、これは朝から始まって、たぶん14時ごろには終わるんだけど、水曜日は〜〜の〜〜が〜〜で〜〜だから、それで金曜日が〜〜の〜〜が〜〜で、〜〜だから〜〜の〜〜に行かなくちゃ行けなくて〜〜で、わたしはイヤだって行ったんだけどどうしても行かなくちゃ行けなくなってしまって、そのとき〜〜さんが〜〜してくれるはずなんだけど〜〜さんも〜〜で〜〜の〜〜に行くらしいから〜〜は難しくて、だからわたしが行くことになってしまっていて、そうそうそれで月曜日も午後の〜〜だけでよかったのに、〜〜の兼ね合いから午前中にも〜〜になって、困っちゃうのよねぇ、だから火曜日も朝からは困るって断ったんだけど、それじゃあ午後からでもいいからって、でも、14時には終わるなら、午後から行ってもねえ、やっぱり朝からじゃないと意味がないじゃない? それで火曜日は一日(ry」みたいな。
知らんがな。
それで、「それで行く? 行かない?」と訊ねたところ※からリピート。
これは断りたいという遠まわしの意思表示かと思い、「じゃあ、また次回ね」と言うと、「ううん、違うの」で三度※からリピート。
「自分の都合を慮った日取りを提案してほしいのか」と思ったのですが、わたしが決めた予定に不満があると※から4回目の繰り返しになることが予測できたので、
「都合にいい日に決めて。こっちであわせるから」
……ところが恐怖の4度目リピートに突入。
もしかしたら「決める」ことが負担になるタイプの人かもしれないんだけども(決めてもらうほうが楽、という人ね)、たぶん、もう、二度と彼女にこういう話は振らないと思う。
疲れたよ。
郵便物を配達してくれるおじさん。
用もなく手渡しをしたがるのでわずらわしいです。
郵便受けに入らないでもなく、受領印がいるでもないのに何ゆえ……。
しかもインターホンも鳴らさずに、ドアをノックして大声で呼ばうんです。
ドンドンドンッ
「八仙花さーん、八仙花さーん、八仙花さーん」
ドンドンドンドンッ
てな感じで。
その件で何度か苦情の電話を入れたのですが、改善される気配はありません。
なんか気持ち悪い……。
今後はこの人だとわかったら居留守決定。それで夜間に持ってきてもらうの。
旦那に受け取ってもらえるし、仮に旦那が遅くても、配達が別の人になるから。
この人、義父の一周忌に届いた仏前に「お金がいっぱい届いていいねぇ」とか言い腐った人と同じじゃないかな……。
あのときあまりの暴言に唖然として言葉も出なかったんだよね……。
いまさらあのときの苦情を言うつもりはないけど、思い出すと今でも怒りがふつふつと沸いてきます。
梅見。
若さまが梅の木立の中を小走りに行ってしまう。それを身を屈めて追いかけてるのが楽しかったです。
梅の枝は低いですから、大人はどうしても中腰で走ることになるんですね。
端から見たら滑稽な姿だろうなと思うと、笑いがこみ上げてきて(笑)
去年はベビーカー。今年はとことこ。
若さまの方が小回りがきく分、来年はわたしも全力で追いかけないといけなくなるかもしれません。
楽しみだな。
春のファブリックを見に行きました。
カーテンとラグを新調する予定なのですが、今日訪ねたお店には気に入ったものがなかったので保留。
実用性(赤子や猫との同居)とインテリアとしての好みのどちらもが満たされるものでなくては、と。
毎日目にするものですから、これを妥協してしまうとシーズン中「ああ、やっぱりあれの方が良かったかも」なんて思うことにもなりかねませんからねぇ。
でもどちらも捨てがたかったので、どちらか選んでいればよかったかも、とかも思ったりするのでした。
キッチンの床に排水溝があれば掃除が簡単なのになあ。
床材は石タイルで、デッキブラシでごしごしできると楽しい。
もちろんキッチンは非対面式(今対面式で不自由しているので)。理想はアイランド型。
などとリフォーム計画をたてるわたし。
でも実行は若さまがもう少し大きくなってからかなあ。
今はカウンタータイプのキッチンだから、ダイニングやリビングから独立してます。調理中に若さまにじゃれ付かれることはなく安心なのですが。
これがオープンだったら、かなり危ないものねぇ……。
最近、掃除が楽しいです。
掃除することが「癒し」になっているような、そんな雰囲気。
掃除って、すごく簡単に結果が見えるじゃないですか。それがちょっとした開放感になってるんだと思います。
だからなのか、旦那が散らかすことが気にならなくなりました。
むしろ適当に散らかってるくらいがやりがいがあって楽しい(笑)
腰痛、背痛、肩の凝り、半端じゃないのが腱鞘炎(←抱っこするから)。
そういう生活を続けてはや3年目。
痛いなりに日常と化しているわけですが、このところやたら整体やマッサージの広告が目に付きます。
若さまは今日で1歳4ヶ月。
去年の写真と現在を見比べると、大きくなったなあ、と実感します。
サイズはもちろんなのですが、去年の今頃はまだ「ねんね」でしたからねぇ。座らせれば数秒その姿勢を保てる、くらいで。
それが今や走る、跳ねる(でも足先は床に付いてるけど)、投げる……やあ、本当に子どもの成長は早いものだと思います。
1歳になりたてのころは、まだまだ赤ちゃんという様子だったのに、今はほとんど子どもというか、時と場合によっては赤ちゃんと表現してもよいかも、というくらい子ども。
30分くらいなら一人で遊べるようになってきたので、その間に家事もできるし、ありがたい半面、もっともっと赤ちゃんでいてほしいような気もするこのごろ。
使用するベビーサインの数やサインを使う場面もぐっと増えて、静かにうるさいのも可愛いです。
ひな祭りでした。
子どものころは立春過ぎに雛人形をだして、当日はあれやこれやのお料理を用意して、とわりときっちりやってました。
中学生のころから七段飾りのすべてを出すことがなくなって、高校生ではほとんど省略、大学のときは……覚えがありません。
母は行事が好きな人なので、たぶん何がしかやっていたのだと思うのですが。
若さまが中学生になるくらいには、端午の節句も省略になってゆくんだろうなあ。
あと十二年、目一杯楽しんでおかなくちゃ。
欲しい物、といって思いつくのは若さまの物ばかり。
自分の物はあらかた足りているということなのかもしれません。
幸せなのか、そうでないのか……。
ただ言えることは、自分の物を選んでいるときよりも、若さまの物を選んでいるときの方が、格段に楽しくて財布の紐が緩みやすいということ。
まあ、若さまの物は昨シーズンの物を使うことができないという大義名分があるので、旦那におねだりしやすいんだろうな。
気兼ねが要らない分、楽しくて当然だ(笑)
母の想像はわたしの想定外であることが多いので面白いです。困ってもいるけれど。
今回は、一昨年、我が家に義母が来てくれたときの話。
初宮のあと、自宅で食事会をしたのですが、そのとき我が家が母の眼から見て「汚かった」らしいんですね。
ひと月前から掃除は心がけていましたから散らかってもおらず、ましてや汚かったということは決してありません。
おそらく母は準備の手伝いにさえ当てにされなかったことが口惜しくて、そのように言うのだと思います。
当てにしないのにはいろいろあるんですが(準備という名目で茶話に来るだけなので来てもらってもかえって足手まとい、とか/苦笑)、まあそれは別の話。
試しにどこが汚れていたかを尋ねると、しばしの無言の後に「わたしが理想とする家財配置ではない」との答え。
やっぱり(笑)
家財道具はわたしたちが暮らすのに便が良い配置になっています。我が家を飾り物のようにしておきたい母にはそれも気に入らない。母はいつまでも「おままごと」にしておきたいのです。わたしの暮らしを。
10年を暮らしている部屋をモデルルームのようにするのは無理だし、そもそも義母がくるのは初めてじゃないし今回だけ取り繕ったって無意味だ、とわたしが笑うと、
「だって○子(義母)さんはそういうお家で暮らしてるんでしょ!! あなたそう言ってた!! それなのに!! あんなんじゃ恥ずかしいじゃないの
!!」
「別に恥ずかしくはないですが」
「わたしが悔しいの! 馬鹿にされてイヤなの!!」
結局モデルルームのようではない「(自分の)娘の家」が、義母の家に負けたような気がして悔しかったのかな。
……この家が「義母の息子の家」でもあることは、たぶん、意識からまるっと抜け落ちてるんだろうなあ。
いや、義母の家は新築なので綺麗は綺麗ですが、生活感はありありですよ。おばあちゃんの介護もしながらだったし、と言うとごにょごにょごにょ。
本当に毎度常人には想定外の想像で、一人気炎をあげている母が、面白いような気の毒なような。
まあ、いいか。それで60年以上生きてきたんだから、まあ、いまさらわたしがどうこう言うようなことじゃないよね。