なるほど、そういう対応が大事なのかと、拍手から頂いたアドバイスを読んで納得いたしました。
ありがとうございます。
思考も感覚も違う人との係わりは本当に難しいですね。
友人知人の幸せ話は聞いていて楽しいし、いくら聞いても飽きることはないのですが、苦労話は聞いているだけで疲れちゃうんですよねぇ……。
だから「苦労」に同意や同調を求められることはわたしにとってはとても苦痛を伴うことなのです。
が、これを「うんうん、そうだね」と肯定しながら受け入れることが大事という人もあるんですね。ううむ、真っ向からお付き合いをしようと思ったら、相当な苦行を覚悟しなくていけないのかも〜。
とはいえ、突き放すこともないので、次回接する機会を得たら、できるだけ彼女の心に添ってみたいと思います。
共通の知人には相談し難いし、といって知らない人に相談すれば愚痴になりかねないし、というとき、WEBの日記にこぼした泣き言にアドバイスをいただけるのは幸せなことだと思いました。
パソコンが壊れました。今度は液晶のバックライトの破損です。
これからしばらくの間は、旦那のパソコンに間借りしての作業になりそうです。
キーボードの配列が異なるので入力速度が目に見えて遅くなります。
それに「変換」も……。わたしは文節長めで変換するのが好きなのですが、旦那は単語毎に変換をするらしいので、借りておいて言うのもなんですが、実に使いにくい(笑)
単語毎に変換をすると、文章が途切れ途切れになってしまい、流れや全体が計りにくいんですよねぇ。
イメージとしては、
「単語、毎に、変換を、すると、文章が、途切れ、途切れ、になってしまい、流れや、全体が、計り、にくい、んですよ、ねぇ」
みたいな(笑)
でも今度は新しいパソコンを買ってくれるようなので、しばらくは我慢をして旦那好みの環境を変えないように気をつけて頑張りたいと思います。
一人っ子がいいなあ、と漠然と考えていたわたし。
全愛情をがっつり注ぎたい、という気持ちがあったから。
わたし自身が兄弟姉妹の存在を持ったことがないので「いたほうがいい!」という確固たる信念に至らないから、というのもあるかも。反面、兄弟がいる苦味も知りませんが。
一人っ子はいいよ〜とか、一人っ子はつらいよ〜という話なら、できるんですけどね(笑)
でも、一人っ子のわたしは全愛情を母からガッツリ注がれてそれはそれで実にありがたいのですが、同時に実に息苦しい思いもしているので、最近は子供は二人以上いたほうが親の矛先が割れて良いのかも、と思うのでした。
まあ、二つに割れても三つに割れても、それぞれの子への愛情(≒執着心?)が薄れるはずもないですが、まあ、ほら、一人にご執心している間はもう一人は息抜きできますし(笑)
ほんと、若さま命! にならないように気をつけないとなぁ……もう手遅れかもしれないけど。
ところで子供を二人育てるってどんな感じなんだろう。たとえば二人目の赤ちゃんが生まれたとして、若さまと過ごしたマンツーマンの1年ではなさそうだし……。
想像つかないなー。
想像つくまで、保留にしておくか(で、そのまま一人っ子って可能性大)
泣かれてしまいました(汗)
何の偶然か、昨日の話題の知人から連絡があり、例によって「大変ね、不安でしょう。辛くないはずがないよね。でも頑張るのよ」なんてお言葉を頂いたので、
「ありがとう、わたしは幸せだから大丈夫だよ。あなたは不安なの?大変だね、頑張ってるのにね。きっと大丈夫だからね」
と言ったところ、泣かれてしまいました。
「あなたにはわたしの気持ちは分からない!」とすごい剣幕で怒鳴られ、本当に何がなんだか分からなかったので
「そう、とても大変なんだね、辛い思いをしてるのにいままでわたしにまで気配りをありがとうね、わたしは幸せだし大丈夫だから、あなたはあなたのことを頑張ってね」というようなことを言ったところ(今思えば下手をやらかしたような気もするけど、そのときは本当に凄まじい剣幕だったから昨日ふと思いついた言葉以外、咄嗟には出てこなかった)、受話器を取り落とすような音が聞こえて通話が切れてしまいました。
取り落としたならまた掛かって来るだろうかと思ったけど音沙汰なし。
結局なんだったんだろう……。
このぶんでは、たぶんわたしが彼女を理解できる日はこないような気がします。……まあ、うん、彼女もわたしの理解を求めてはいないと思うので、いいんじゃないかな……ビミョー。
ていうか、顔見知りというだけの彼女に誰が逐一わたしの近況報告をしているのか、そこが気になるこの頃です。
世間話で共通の知人の話題が出てるだけなんだろうけどね。うーん、毎度面倒くさい。
わたしよりもずっと強い不安の中で生きているのかも、とある知人について思うこのところ。
彼女はいつも「大変だね」とか「不安だね」の後で、「大丈夫よ」と慰めたがります。
そんなとき、わたしは水を差されたように感じてしまっていました。
彼女の言葉に白けてしまうんですね。
だってわたしは「大変」も「不安」も感じていないから。
たとえばわたしが婚約したとき、新婚のとき、新居を構えたとき、転職したとき、妊娠したとき、出産したときetc.
ある日突然連絡をよこし「聞いたよ、○○したんだって? これから大変だね、すごい不安だよね。せっかく〜〜で頑張ってたのに、可哀そうに……。でも大丈夫だから、元気出してね」と一方的に慰めてくれます。
こうして書きだしてみると何か不幸があったときの言葉みたいだ(笑)
あれ? そういえば「おめでとう」と言われたことは一度もないような……あったかな。どうだったろう。毎回突拍子もないことを言うので、覚えてないだけかもしれない。
彼女の言を聞くたびに、「大変って何が? 不安ってどんな? 頑張るって何を?」とわたしは思っていたんだけど、仮に彼女が「新しいことに強い不安を覚える人」なら当然の言葉なのかもしれないと、ふと思ったのでした。
「不安なこと」≒「望まないこと」だから、「望んでもいない出来事に見舞われてなんて可哀そう」って思ってもしかたがないですものね。
そんな不安いっぱいの中にいて可哀そうなのに、わたしのことまで可哀そうに思ってくれるなんて実はいい人なんだろうな。白けた対応をして、悪いことしちゃったかな……。
本当は彼女こそが「大変だね、不安なのに頑張ってるね」って誰かに言ってほしいのかもしれないな。
わたしは幸せなのでお気遣いなく、あなたはいろいろと不安があって大変でしょうけどくじけずに頑張ってね、って返したら喜んでくれるかな。
以前よく利用していた空港に行きました。若さまに飛行機を見せたいと思って。ここなら発着も近くで見られるかな、と。
ですが、すっかり様変わりしていて驚きました。
行く道々でも町の雰囲気が消沈していて「思った以上に移転の影響があったんだなあ」とは思っていたのです。
以前の賑わいを知るだけに、縮小された空港とその近辺の寂れぶりには感傷的な気持ちになりました。いろんな思い出もありましたからねぇ……切ないな。
もう瞼の裏にしかない景色、というものをいくつもいくつも得ながら、時は重ねてゆくものなのかもしれません。
や、それにしてもちょっと本気で泣けました。瞼が熱い。なにをいまさら、ってなくらい移転から月日は過ぎているんですが。
で、それだけではなんなので、近くの城跡公園に足を伸ばしてお散歩をしてきました。
豪をぐるりとめぐっただけですが、とても気持ちのよいところです。
次回は山の上まで上ってみたいな。
そろそろ年末のお掃除の配分も考えてゆかなければならないこの頃。
そういうことで、家中の収納を見直してみよう、となりました。
おそらく今の書斎を家族共用クローゼットにして、今の寝室を書斎にすることになりそうです。
見直せばいらないものがまだまだあるよね、なんて話になり、とりあえず各々(←これが我が家の鉄則)それらをすっかり処分して、残ったものの量を見て収納スペースを考えるというのが、まずは第一弾。
その手始めに、寝室のベッドを捨てたのが先週。
今は和室に布団を敷いて「川の字」をしているので、ベッドは不要。いずれまた寝室を設けるときには新しいベッドにしたいので処分することにしました。
これで寝室を書斎にする算段もつきましたので、書籍をちまちまと元寝室に運び入れる作業が始まりました。
で、いつか(笑)元書斎が片付いたら、そこをクロゼットにすべく箪笥他を運びこむ予定。
本当は箪笥を運び入れるより、箪笥は処分して壁面収納にしてしまうほうが収まりはよさそうなんだけどなあ……。
和服も少なくないので、果たして壁面収納にどこまでの保管能力を期待できるのか……悩みどころです。
物には名前があるらしいことを、若さまは理解したようです。
というか、一般名詞の存在に気がついた、のか。
イラストを描いて「飛行機だよー、パパは今、飛行機を開発するお仕事をしてるんだよー」なんて話をしていたら指差して
「んっ!」
そこにはカレンダー「世界の戦闘機」今月はパキスタン空軍の練習機。派手なカラーリング(5色使い)が赤子好み。
それからイラストを指差して「ん」、カレンダーの元に走っていって「ん」を数回繰り返し、その都度「そうだよ、それも飛行機」という肯定を求め、次は飛行機の描かれている絵本を取り出して「ん!」
すごいなあ、どんどん人間になってゆくよ、と感嘆いたしました。
なんていうか、こう、親の情とか愛とか「こんなに大きくなって」とか、そういう叙情的な感嘆とは別の感嘆といいますか……。
ただの「小さいの」じゃなかったんだなあと思うしだいです。
ほんと、ただの「小さいの」でいてくれる期間は短いので、残り少ない「小さいの」期間を堪能したいです。
これから待ち受ける「ちょっと大きくなったの」との生活は、今より大変そうだもの〜。
相手の「断る権利」を認めない人、についての話を数日前に書きましたが、それに関連して思うことを少し。
断る権利を認めないというのは、断られることを想定していないということです。
意識してか、無意識のうちか「断るなんてありえない」という感じているのだと思います。
それの是非は時と場合によるので一概には言えませんが、少なくとも当人にとっては「ありえない」時と場面であるのだということは察せられます。
まあ、こうして考えると大きな問題があるわけではないんですよね。
単に感覚の違い、としか言えない。違うものの是非を問うのは無意味です。
そう考えてみるとあえて「『断る権利』を相手に認めない人」と言い表すべき人というのは、
時と場合を考えることなく常に「断るなんてありえない」と考えている人
と言えるかもしれません。
常にいつだって自分の厚意が受け入れられると「節操なし」に信じている人、というと誤解がないのかな。
こういった人の多くが持つもうひとつの側面に「断り下手」があります。
おそらくは「人の厚意は必ず受け入れるべし」という概念がまず存在し、派生して「断るなんてありえない」という思考になり、相手にも己にも「断る」という選択肢を与えない結果になるのだと思いました。
「わたしは我慢してでも受け入れるのに、自分だけ断るなんてずるい!」とか
「断るなんてよほどの悪意がなくてはできない、きっとわたしのことが嫌いなんだ」とか
「断れるような(悪い)こと、わたしはしてないのにどうして。ひどいよ!」とか
そんな感じ?
いや、それ、全部あなたの事情で、断る相手にも事情があること忘れてませんか? みたいなー。
単に純粋で幼いだけなのかもしれませんねぇ……。断ることは悪いことでもずるいことでもないんだけど、それがわからないのかもしれないなあ。
……でもわたしはいい大人を相手に子守めいたことをする気はないので、やっぱり距離は空ける。
ぶっちゃけ「断り」に関しては下手でも上手でも当人だけの問題なので構いやしませんが――当人が我慢したいなら我慢すればいいし、我慢したくないなら我慢しなければいい――「断られ」に関しては下手は「迷惑」だと思います。
断られ下手の典型がストーカーだと考えるわたしは、プチストーカーやプレストーカーとは付き合う気持ちには到底なれないのでした。
旦那の会社はちょと変わっていて、休前日に突然出勤指令が出ます。
まあいろいろと事情があって、休日出勤そのものはやぶさかでないのですが、前日になってから、というか前日にならないと確定しない出勤というのは「だらしない」ように思えてしまいます。
毎回、前前日の昼の段階で「もしかして休日出勤になるかも」、21時退社間際に「たぶん休日出勤になると思う」、前日朝でもまだ「きっと休日出勤だと思う」、昼ごろに「まあ、休日出勤だね」、夕方になってやっと「休日出勤になった」という流れなんですよねぇ。
学生の趣味のサークルじゃないんだから前日にならないと確定しないってのはちょっとルーズなんじゃないのー、と。
もっとも誰しも休日出勤はしたくないわけで、最終日までその事態を避けようとして頑張っているのでしょうが、客観的に見ると
「決定を先送りにしているだけ」
のように感じられます。
さっさと休日出勤を確定して、スケジュールを組みなおすほうが日々の業務もスムーズだと思うんですけどねぇ。
もしかすると、先に休日出勤を決めてしまうと「1日猶予が出来たから」って易きに流れてしまうのかなぁ。まさかそんなはずはないか。
ルーチンじゃないから、こういうこともありうる、と旦那はいうけど、ルーチンじゃないからこそ休日出勤の決定は先にしなくちゃならないんじゃないの、と。
最低でも1週間前には「このままの流れならおそらく休日出勤になるから、出られるように準備しておいて」とかなんとか、アナウンスがあって然るべきだと思う。
だって旅行に行く予定なんか入ってたら前日キャンセルじゃ8割は持ってゆかれるよ。1週間前なら気持ちの整理だけでなんとかなるのに。いや、気持ちの整理だって十分大変だけどね。
そこまで(旅行のキャンセル等)までしてもらうほどのことじゃない、出られる人だけでいい、というなら、そもそも休日出勤の価値が問われるわけでさ。だって「出なくても回せる範囲」でしかないってことだから。
結局のところ、仕事や職種云々じゃなくて、プロジェクトを主導してる人の采配が甘いんだと思う。
予測不可能な事態も世の中には少なくないから稀にはこういうこともあるだろうけど、休日出勤に関して毎回こんな調子だと、どうもスケジューリングというものを甘く見ている雰囲気は否めないなあ。
一度でいいから十日前に確定してみろ、と言ってみたい。
それともあれかな。「来るかも」「来るかも」「来るかも」「来た〜っ(来なかった〜っ)」みたいな感覚が楽しいとかね。
……男の人ってサプライズ好きな人多いもんねぇ。
まあいいや、好きに楽しめ。思う存分楽しめ。
バックアップは十分にしてやろうよ。それが妻たる者の務めだ。
ただし、時間外労働の手当ては弾んでもらうよ〜。そうだな、辞書の4,5冊で手をうとうかね。ふっふっふ。
最近若さまはお気に入りの毛布を持って歩き回るようになりました。
頭からフードのようにかぶってみたり、ショールのように肩に掛けてみたり。
枕を運ぶのも大好きです。
大きさのあるものを運べることが楽しいのかな。
畳んだおむつを一生懸命運んで、まき散らかしてくれたりもいたしますが、可愛いので無問題。
もっとやってv
以前上司から、「何もしていない時間をなくせば、今の3倍量の仕事がこなせる」という指導を受けたことがあります。
簡単に言えば「何かのついで」に片付ける仕事を増やすということなんですけどね。
それが今も役立っています。
たとえばリビングにいて、書斎にある本を取りに行くなら、書斎方面に持ってゆくものを手に取る。書斎からリビングに戻る際には次に運ぶ必要のあるものをざっと確認する、みたいな。
我が家の場合、台所と脱衣所と玄関がその通り道にあります。
したがって本を取りに行くついでにまず台所で湯を沸かし、使い終わった布巾等を回収。洗濯機へ入れて稼動。玄関先を軽く整頓し、本を取ったら、戻りには洗濯の終わる時間を確認して、きれいな布巾を台所へ運び、ティーセットを用意する。そうこうしているうちにお湯も沸くのでお茶を入れてティータイム、と。
基本は「手ぶらで移動しない」ことなんですけども、これを意識していると、まず部屋が散らからないし、散らかってもすぐに片付くのでたくさんの仕事を簡単にこなすことができます。
で、作った余裕は趣味の時間にあてる、と。わたしの場合は読書にネットに美容にモノ作り(執筆だったり菓子だったりそこはいろいろ)かな。
この余裕の時間に欲をかいて仕事を詰め込むのはNG。だってすでに3倍量の仕事をしているんですから。
予定以上の仕事は絶対にしない、これがわたし流家事の奥義です。
もっともやる気がなければどうにもならんのですがね。
家も会社も、家事も仕事も、結局のところ気持ちひとつだなあと思うのでした。
義父の五回忌でした。
義父が入院して、見舞いに通って……なんだか先日のことのように思いだされます。
飛行機で毎週末見舞いに通うのは、体力的にも精神的にも経済的にも大変だったけど、今思えばとても充実していたと思います。
毎年秋が来るたびに、あの秋を思い出しては「まだまだ平気、大丈夫」「これくらいならどんとこい」と思えることが、義父がくれた一番のプレゼントです。
一生輝くプレゼントをありがとう、と手を合わせ、明日からまた頑張るのです。
適度に力を抜きながら(笑)
ノーサンキュー、という場面。
通常「ありがとう、でも結構です」で良いと思うのですが、稀に「あなたの好意に応えられない拙い私めを、どうぞその広いお心でもって何卒お許しくださいませ」でないと納得しない人がいます。
後者のタイプはサンキューの場合でも、「ありがとう」より「ごめんなさい」のやり取りが好きみたい。
総じて話が長くなるのも特徴?
それも個性だとも思うけど、苦手です。
数秒で済むはず「結構です」を、引き伸ばされるのが苦痛なんですよねぇ。
「結構です」の理由を詳細に聞きたがり、それでもなお自分の善意を受け取って欲しいと粘られたりすると、もう苦行に近いです。
どうしてこんなに苦手なのか、今日はよく考えてみたところ、たぶん「お仕着せがましさ」がダメなんだろうな、という結論に至りました。
お仕着せというのは必ず上から下へなされるものなんですよね。力関係が対等であれば、起こりえない。
つまり無意識のうちに、彼らは善意をわたしに「下されておられる」わけです。
わたしを彼らの「下」と思うのは彼らの勝手なのでどうでもよいのですが、彼らの「下」にわたしがあると思わないのはわたしの勝手。
わたしの態度が彼らの思うものと異なったからといって、ふてくされられたりすねられたりすると本当に面倒くさいんですね。
いらんモンでもくれるんならもらっとき、みたいな感覚はよくわかりません。
いらんモンもらってもしょーもないわ。
断る権利を相手に認めない人って、付き合いにくいなあ、と思う本日。
いつも身奇麗にしていてすごい(悪い意味で)ね、と言われました。よくそんな時間があるね、それにお母さんらしくない、と。
たぶん出産前の服を着ているからかな。
出産直前までずっと働いていたからあまり主婦っぽい(?)服じゃないのは確かかも。だって先年まで主婦じゃなかったんだから仕方がないよ〜。
このところ時間がとれず洋服を買いに行く暇もなく、今までに購入していたお店には彼女の言う「お母さんぽい服」はないので、そういう洋服を買おうと思えば新規開拓も必要で。
ぶっちゃけ見た目を母親っぽくするためだけに使う時間が惜しいのもありまして、結局ツーシーズン前の洋服を小物でフォローしながら
今様に着るので精一杯なんだけどなあ……。
そんな格好で……汚れてもいいの? みたいなことも言われたけど、わたし的には
「汚すための服」
を新たに購入するほうがよほど嫌なんだよねぇ。もったいない。