旦那は自由演奏会とやらにお出かけ。なんでも当日飛び入りで演奏に参加できるとか。
わたしもまずは観客で様子を窺って、赤さまが赤さまを卒業するくらいには参加できるといいな。
実は途中、旦那から「赤さま連れでも観客なら大丈夫そうだよ」と連絡があって、心は少し傾いたのです。でも
「こっちまで電車で来て、帰りは車で帰っていいよ。俺は電車で帰るから」
みたいなことを言われて、一気に萎え萎え〜。
どうしてかというと「おまえが楽器を積んで車で帰ったら、俺は身軽に打ち上げに参加して一杯やってこれる」なんて風に聞こえてしまったの。完全なる「僻み」妄想なんですけども(笑)
そのときのわたしの心の声です。↓
「えー、それなら最初から君が電車で行けば良かったのにぃ。わたしと赤さまは気が向いたら出かけて、疲れたら帰るから。君の案だと、わたしと赤さまはこれから大荷物を抱えてベビーカーでバスに乗って地下鉄に乗って、私鉄に乗り換えて、見知らぬ街を駅から会場まで炎天下何分か歩いて、ベビールームがあるかどうかもしれない会場で数時間を過ごし、君の演奏が終わって会場の片付けが済むまで待って、君の楽器を積んで、君から車の鍵を受け取るまで帰れないんだよね。しかもそれが何時になるのかもわからないのに? そこまで待たせるなら、打ち上げは遠慮して一緒に帰るくらいの気遣いはあっていいんじゃないの? だいたい『車で帰っていいよ』って何? 何で君がわたしに許可を出してるの? そこは『本日は遠路はるばるご足労いただきましてまことにありがとうございます〜中略〜重ね重ねお手数をおかけいたしますが私めの楽器と車を何卒よろしくお願いします』でしょう? え?違う? いーや、違わない」
とかなんとか1秒半くらいの間に考えて、ふたたび心の声
「あー、いやいやいやいや、それは端が被害妄想からなる解釈であることは明白だから、修正修正修正ー」
で、修正後の現実の声。
「ありがとう。でも今回はちょっと遠慮しておく。次回は、会場の下見をしておいて、きっと聞きに行くから」
考えてみればベビールームの有無とか、誰が車を使うとか、当日のスケジュールとか、前日までにわたしが自分で確認すればよかったことですもんね。人任せにしておいて、「えー」とかいうのは可笑しい。
そゆこと忘れると幸せを逃すことになるので、気をつけねば〜、と思ったのでした。
ちかくのショッピングセンターのベビールームは男性も入室できます。
ベビールームの一角には授乳コーナーもあるのですが、
┌─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┐
│ おむつ替え用ベッド │ │ │ │
┌────┼─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┘ └─┤
├────┤ ゴミ箱↑
│
│授乳コーナー 入り口(オープン仕様)
│
├────┤
└────┤ ソファ↓ ┌───┤
├─────────────┤調乳台│
└─────────────┴───┘
こんな感じで授乳コーナーが別に確保されているんですね。
授乳コーナーは4〜6人で共用するタイプ。一応、カーテンで4分できる仕様になっているので、よほど込み合わない限りは個室状態で使えます。コーナーの入り口もカーテンですが、入り口には男性の入室禁止が明記されています。
男性も育児に携わる時代、これなら子どもにミルクを与えたい父親は入ってすぐの調乳台を使うことができ、おむつの交換もでき、ゴミも捨てやすいというわりと理想的な配置だと思います。
でも、某百貨店のベビールームはこんな感じ。
┌──┬─┬────┐
│ │調├────┤
│ ゴ│乳│↑ソファ├──────┐
│ ミ│台│授乳コーナー│ ・○・ │
│ 箱├─┼ ┘カフェテーブル&チェア│ │
│ →└─┘ │←ルーバー様の壁
├─┬─┬─┬─┬─┐ ↓ソファ │ │
│おむつ替え用ベッド│┌────┐│
└─┴─┴─┴─┴─┴┴────┴┘
実際にはこの百貨店のベビールームは上述ショッピングセンターのベビールームの3分の1くらいしかありません。
調乳台は最奥、ゴミ箱がその隣、オムツ替えベッドは授乳コーナーの正面。
授乳コーナーは実質二人も入れば満室状態でして、ソファやカフェテーブルで授乳している母親がいることもあります。
授乳コーナーに二人、ベッド横のソファに二人、カフェテーブルに一人、くらいが人口密度として適当だと考えると、上述ショッピングセンターの授乳コーナー程度の人員収容量しかありません。
つまり男性が入室することを前提には設計されていないんですね。
そして入り口にも「男性の入室はご遠慮ください」の表示。
ショッピングセンターと百貨店では客層の違いがありベビールームの使用頻度も異なるので仕方がないことだとも思いますので、ベビールームに不満は覚えないのですが。
子連れ男性には申し訳ないけれど、ベビールームには入ってこないでほしかったです〜。
……でもたぶん男性用トイレには、おむつ交換台もないのでしょうねぇ。
それで他に利用者がいないときを見計らって入ってきてオムツを替えようとしたんだけど、実はカーテン一枚を挟んで授乳コーナーにはわたしがいた、という間が悪い出来事。それを思うと当然責める気にはならないんですけども。
ああ、やっぱり子連れ男性も利用しやすい形態のベビールームをお店側が用意してくれると一番なんだけどなあ。
「それ全然面白くないんだけど。むしろ無茶苦茶不愉快なんですが」
旦那のおフザケに対して、本日はっきりきっぱりモノ申してみました。
これでつまらないおふざけから解放されてすっきりすると思いきや、しょぼくれる姿に罪悪感。
あああーごめんよー、君のネタが面白くないわけじゃない。楽しむ余裕のないわたしがいけないだけだー。
遠距離恋愛ならぬ遠距離友情に慣れてしまっているわたし。わたしにとって友人とはふと思いだしては「今頃どうしているだろう」と懐かしみ「もし彼(女)なら、こんなときどうするだろうか」と心で相談し、思いたてば連絡なんかしてみたりして、互いに都合がつけば稀に遊びにいったりする、そういう存在だ。
その「ふと思い出す」頻度は、なぜか親友ほど少ない。あらためて思いだすという作業がいらないくらい、心に馴染んでいるのだと思う。
だから友人が今どこにいて何をしていても、あまり関係ない。幸せに生きていてくれればよくて、もし何年かに一度でも、時間やら気持ちやら体力やら財布やらに余裕があって、かつ気が向いたときにでも連絡をよこしてくれたら、それだけで十分にわたしの「友情」は続く。
わたしの「友情の更新手続き」は「期限なし」、「友情の更新手数料」は「あるとき払いの催促なし」が基本なのだ。
なので、友情を保つためにはまめな連絡必須、メールは毎日、すぐに返信、などの条件を重ねられると「面倒な人だなあ」と思ってしまう。
つか、他にすることないの? みたいな?
お互いに生活があり、目標があり、夢があり、義務を負うなかで、友人ばかりには感けていられない。
これは人付き合いにおいては「甘え」であるけれども、この「甘え」を互いに許しあえる。それこそが友情だと、わたしは思う。
ベビーマッサージの講座の延長をお願いしようか迷ったのですが、今回は見送ることに。
先生とは今後も個人的に指導を受けられるので、カルチャースクールとしては終了でいいかな、と。
というのも、最近は赤さまが実に活発で、なかなかマッサージをフルコースではさせてくれないのです。
きゃっきゃと笑いながら逃げる赤さまを捕まえてマッサージするのも、我が家でならとても楽しいのですけれど、カルチャースクールの和室でとなるとどうも遠慮がありまして(笑)
だって、茶道や華道、着付けにも使うお部屋ですし「オイルで畳が汚れたら困るだろうな」って思うとちょっとね。
ちゃんと掃除はしてくれているんだとも思うのですが、もしわたしがお茶のお稽古に来て、万が一お着物に油染みが……などと考えると、お願い、ここではじっとして〜という気分になってしまうことが多くって。
なので、今後は先生にご指導を頂きつつ、自宅でベビーマッサージを続けたいと思います。
従妹の家は下図のCに当たります。
北
┌──────────────┬────────┬────────┐
│ ┌─────┐ │ ┌────┐│ ┌────┐│
│ │ │ │ │ ││ │ ││
│ │ │ │ │ ││ │ ││
│ │ │ │ │ ││ │ ││
公│ │ A │ │ │ B ││ │ C ││
│ │ │ │ │ ││ │ ││
│ │ │ │ │ ││ │ ││
│ │ │ │ │ ││ │ ││
│ └─────┘ │ │ ││ │ ││
道├──────────────┘ │ ││ │ ││
│ └────┘│ └────┘│
│ │ │
│ │ │
├───────────────────────┘ │
│□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ │
└────────────────────────────────┘
南
□□□の部分は、駐車場兼庭なのだそうです。
が、そこに車を止めないでほしい、子供を遊ばせないでほしい、とBさん宅からクレームがあるのだとか。
理由はBとCの間の共有柵にBさんはお布団を干すそうで、車を止められたり、子供が遊んだりするとお布団が汚れるからというお話のようです。
私道とはいえ、道で子供を遊ばせないで! 道に車を止めないで!ということらしいんですけども。
従妹は件の場所を「駐車場件庭」と考えていて、Bさんは「私道」だと考えていて……ここ数年平行線のままなんですって。
ううむ。
私道ってこういう場合にも当てはまるんでしたっけ。
というか、共有柵に相手側にはみ出す形で物を掛けるってマナー的にNGっぽく感じるんだけどなあ。
いとこの内は閑静な住宅街のさらに奥まったところにあって、本当に静かでのどかで憧れていました。わたしも家を買うならCの場所がいいなあ、なんて。
でも……隣人しだいなのかも〜
絵本「きつねのおきゃくさま」を読んでの感想。
あらすじ:痩せたひよこを拾ったきつねは太らせてから美味しく頂こうと考えます。しかしきつねに拾われたひよこは「やさしいおにいちゃん」ときつねを慕います。あれこれあって、結局ひよことあひるとうさぎから「親切で優しくて神様みたいなきつねのお兄ちゃん」と慕われるきつね。そんなある日、保護した三匹がオオカミに襲われます。そのとき、きつねは三匹を守って勇敢に戦い、死んでゆきました。まるまると太ったひよことあひるとうさぎはきつねを悼んで涙を流すのでした。
八仙花「で、感想なんだけど『欲は身を滅ぼす』」
旦那 「……違うだろ」
ともあれ良いお話です。
母がわたしのマザーズバッグを欲しがっています。
いくつかあるんですけれど、母が欲しがったのはハンナフラのマザーズバッグ(チョコドット)。
先日あったときに見て、気に入ったらしいんですね。
で、「お金渡すから注文して欲しい」と言われて「5000円もあれば足りるでしょ?」
母の目には5000円くらいに見えたのでしょう。
で、「ごめん、7000円くらいだったと思う」と言ったところ、案の定
「ええーっ、あんなの全部で3000円くらいなんじゃないのぉっ!?」
全部というのはマザーズバッグ、おむつポーチ、母子手帳ケース、ダブルマグポーチ、アクセサリーポーチの5点。
一個あたり600円の値踏みなのは、まあ、そう見えたのだから仕方がないとして、
「(お釣分の)お小遣いあげようと思って言ったんだけど、これが7000円? 全部で?」
「いいえ、バッグのみ単品価格でございます」
「えひえっぇーっ」(声裏返る)
に、大笑い。
たしかに母の目からすれば、玩具のようなバッグにどうして、と思うかもしれないなあ。
でも、ほら、ルノアールの絵でも、原価はキャンバスと絵の具代だから(違)
3ヶ月間のベビーマッサージ講座も本日で終了。
3ヶ月前はまだネンネ+αでマッサージしたい放題だった赤さまも、今ではきゃあきゃあと逃げ回る日々。
たった3ヶ月なのに、この違いは大きいなあ。
延長をお願いしようか、ちょっと考え中。
母に呼ばれて実家へ行ってきました。
先日「愚痴は聞きたくない」と言ったためか、珍しく母は一切の愚痴を口にしませんでした。
「愚痴がダメだなんて、喋ることがないじゃない」なんて最初は言っていたんですけども、禁止されてみれば愚痴以外にも喋ることはたくさんあったようで、そこそこ楽しい会話ができました。
老親が子に求めることのひとつに「話相手」っていうのがあるらしいです。
でも、その話し相手ってどうも「ただ黙って聞いてくれて、全て肯定してくれて、一切拒絶しないでほしい」らしいんですね。
凄まじいワガママを言ってくれるわー、と、とある記事を読んだときに思ったものです。
あなた、それは地蔵さんにでもお願いなさいな、と(笑)
わたしの母も例に漏れずそんな年寄りになってきているようですが、いい関係でいたいのならわたしが地蔵でないことを認めなさい、と伝えられてよかったです。
だって、赤さまに聞かせたくないですもの……不平不満や悪口なんか。
そのうち覚えてしまうものであっても、愚痴や悪口の英才教育はいらんです(笑)
母と接触すると情緒不安定になるこのごろ。
旦那や赤さま、御猫さまへの対応もイライラしがちになります。
それも数日のことではなくて、長いと半月くらいはそんな感じに。
これは本格的にまずいかも。
母とわたしの関係を、わたしの中でもう少し整頓したほうがよいのかも。
結局母にこれだけイライラさせられてるってことは、わたしの感情の主導権を母に握られているってことでもあるので。
自立しないと〜。
旦那の赤ちゃん返り(?)が重荷です。
今日は「赤さまに輪唱を聞かせてみようか」と提案して「いいねぇ」と初めて。
わたしが「かえるの歌が」と歌い始めたわけです。
その一小節後に「静かな湖畔の森の影から」と。
……もうね、脱力。
「そっちの歌がいいならそっちにしようか」と「静かな湖畔の森の影から」とわたしが歌うと「かえるの歌が」と重ねるの。
それもすっごい楽しそうに。
しかもその「遊び」の相手は、明らかにわたしなんだよね、赤さまじゃなくてさ。わたしの反応を窺ってるの。笑う?笑う?笑うよね?面白いでしょ?ね?ね?ね?みたいな。
でもわたしにはそれの何が面白いんだか全くわからない。
馬鹿馬鹿しくて何もする気がなくなってしまいます。厭世観を覚えます。
だからって赤さまのお世話を投げ出すわけにはいかないし、第一赤さまは無関係だし。
……わたしは赤さまを旦那とあやしてるつもりなんだけど、旦那はわたしに「遊んでもらってる」感じなのかなあ。
思えば赤さまに喃語が出始めたころから、急に小学生みたいな反応をするようになって……ていうか「ダンスィ」化してる。
赤さまに幼心を触発されているのか、単なる赤ちゃん返りなのか不明ですが、わたしはお子様を伴侶にした覚えはないので、そういうのやめてもらいたいです。マジ勘弁。続くようなら、はっきり指摘したほうがいいんだろうな。
母からまたしても電話。是非にも来てほしい、ということで、木曜日に訪ねることにしました。
赤さまの顔をみせるくらいの義理は果たしたほうがいいかな、と思って。
でも「母の話は愚痴が多い」んです。
ご近所付き合いの愚痴、父の愚痴、義母の愚痴、わたしに対する愚痴、と愚痴が多いので聞いていて疲れてしまいます。
わたしへの愚痴はまだいいんですけど(わたしへの要望とも受け取れますから)、他の愚痴は聞いてもどうしようもないというか、当人同士で解決してくれる?としか言いようがなくて。
聞いてくれるだけでいい、なんて母は言うのですが、愚痴は聞かされるだけで拷問に近いと思うんですよ。
「楽しくない話はしないでね。愚痴はお断り」と、今回初めてはっきり言ってみました。
そうしたら、
「あのね、あなたはそういうけど、年寄りの暮らしに楽しい明るい話題なんてないわよ。これから老いさらばえて死んでくだけなんだから、日々愚痴だらけよ」
としたり顔な口調で言ってくれるわけです。
そういう考えだから、毎日が愚痴だらけなんだろうなあ、と思いました。
老いは体だけでなく、心も鈍らせるものなのでしょうか。ううむ。
母のお節介にほとほと手を焼いております。
たまの休日、親子三人でのんびりしたいのに長電話に遊びのお誘い、断っても食い下がる。挙句の果てには「行ってあげようか」
そこは「お邪魔してもいい?」でしょー、と突っ込みたくなります。
なんかもー、母から電話だと思うだけでいらいらするこのごろです。
昔から独りよがりなところはあったんですけどねぇ。最近は富にその傾向が強くなってしまって、実の娘のわたしでさえうんざりする始末。
独りよがり、といってもどれもが日常の些細なことですが。
たとえば、味噌煮込みうどんの玉子。わたしは半煮えになった玉子を最後に食べるのが好きなんですけども、
「混ぜたほうがおいしいわよ」
って、わたしの鍋にまで箸を突っ込んでかき混ぜようとしてくれたり
きしめんに
「鰹節をたっぷりかけるとおいしいのよ」
と、わたしは鰹節が苦手なのにたんまり乗せようとしてくれたり
白焼きのひつまぶし(うなぎの白焼きをぶつ切りにして、刻み海苔と山椒とわさびに湯漬けでいただくのが最高に好きなんです)に、
「蒲焼のたれを入れると美味しいのよ〜」
なんてぶっ掛けてくれたり……わさびと蒲焼のたれの組み合わせは勘弁して(泣)
他にもストレートで頼んだ紅茶に「ミルクあまってるから入れてあげる♪」とか、ブラックで頼んだアイスコーヒーに「わたしのシロップ使ってもいいよ」とか……。
書き出してみると本当に些細なことばかりですが(しかも食べ物のことばかりで)、一事が万事この調子だと、本当に気が狂うようなストレスを覚えます。
わたしに構わないでくださいと言い続けてはや20年。
きっともう一生こうなんだろうと思うと、心臓の辺りがきゅきゅきゅきゅきゅーっとします。あー、もー、ヤダ。
わたしは大変なときほどそっとしておいて欲しいと思うのですね。
あからさまに気遣われたり、繰り返し「大丈夫?」と訊ねられたりすると困惑してしまうと言うか、そう、「あれ、もしかしてわたしの不調で迷惑がかかっているのだろうか」とかえって心配になってしまうんです。それに本当に大変なときって人を気遣う余裕もなくなっているので、「大丈夫?」に対して「大丈夫よ、お気遣いありがとう」ということにも苦痛を覚えたり。
だから「あ、不調そうだな」と思ったらそっとしておいてくれる、気づかないふりをしてくれる、いつもと変わりなく接してくれるほうが安心なんですけども。
でもそれはわたしの場合なんですよねぇ。
友人の愚痴を聞きながらも、事の核心には触れないようにして、いつものように接していたら
「情がない! 優しくない!」
って怒らせちゃった。
わたしとしては彼女の益体もない愚痴を聞いてあげただけで十分親切のつもりだったのですが……。
ていうか、「大丈夫〜ぅ?大変だったねぇ、それからどうしたの?」という相槌を期待しているなら、別の友人を頼るほうがいいんじゃないかと。だって向き不向きってあるもの。