インターホンが鳴る。
会社の受付とは違い、一般家庭ではインターホンの前で待機しているわけじゃないから、「ピンポーン」と鳴って出るまでには最短でも数秒はかかるんですけど、最近その数秒を待ってくれない業者さんが増えました。
在宅にも関わらず、不在票が郵便受けに入れられているのを見る回数が倍増。
きっと、暑いからでしょうねぇ。今日も気温は37度を越えていましたし。
まあ、連絡を入れれば再配達は快く届けてくださるので苦情を言うようなことではありません。
ただ、インターホンが鳴ったからには、家人は応答にそこまで行くわけですよ。
ものの数秒で立ち去られてしまうと、無言の受話器を持ったままなんとも虚しい気持ちになりまして。
そういうことなので、特に時間帯指定がないときは、夏場は朝夕の涼しい時間帯に届けていただければお互いに気持ちよいのではないかしらん、と思うのでした。
ところで今日は、インターホンがなったとき旦那がその近くにいたので
「出てくれる?」
と応対を頼んだのですが、彼は無言でその場を立ち去ってしまいました。
あらま、めずらしく反抗期?(笑)などと思ったのですが、
「誰もいなかったよ……」
と、無言の受話器を持つわたしのところに、しょぼくれた様子で戻ってきました。
どうやらあわてて玄関まで行ってくれたみたいです。
わざわざ玄関まで走らなくてもインターホンに出てくれればよかったんだけど、と思う反面、返事もそこそこに玄関まで走っていった反応のよさを思うと、可笑しいやら、笑っては悪い気がするやら。
わたしが「インターホンをとってくれる?」と言えば良かったのかも。
だけどこの場合、一番かわいそうなのは再配達をさせられる運送屋さんのお兄さんだね。
お兄さん、暑い中、いつもありがとうございます。
目的と手段の混同や原因と結果の取り違えのようなものをふと思った本日。
手のかかる子ほど可愛い、というのは、おそらく「可愛いから手をかけたい」が正解のような気がします。
最初に対象への好意がある。関わっていたいと思う。だから、関わる機会があるとうれしい、という流れ。
まずは好意があって成立することだとわたしは思うんだけど。
痘痕も笑窪に良く似ている。
当然、対象への好意が特になければ痘痕は痘痕、笑窪は笑窪。
対象が嫌いだったりすると、笑窪も痘痕になりかねない。
で、年上へのアプローチは甘えればいい(手をかけさせればいい)、みたいな感覚の知人を見ていて感じたことなんですけどね。
確かに年下の人に説教されたり指示されたりお世話されたりするのは年長者として心穏やかではないでしょうけれども、じゃあその反対ならOKというのでもないんじゃないかなあ、と。
まず最初に好意を得て、得た好意を育てる手段の一つとしてなら効力を発揮するかもしれないけど、最初から「手がかかるだけ」では、進展は難しいように思う。
そこからちょっと考えて思ったんだけども、わたし、笑窪も痘痕で見ている人が数人いるかもしれない。
そういった人たちの、おそらくは何気ない、そして悪意のない一言が気に障るのは、長所さえも短所として見てしまっているからではないか。
ニュートラルな視点を意識するようにしなくちゃならないな。
お墓参りに行きました。
うちのお墓は黒っぽい石でできているので花もちが良くなくて(石が熱を吸収して花入れの水を温めてしまうため)、夏場は一週間持たないこともしばしば。
オーソドックスな青灰色にしていればこんなことにはならなかったかも、などと今さらながらに「基本」の大切さを思うのでした。
黒っぽい石だからまだ良いのですが、これが那智黒みたいな真っ黒な石だった場合、石焼ができそうなくらい熱くなるそうです。で、熱膨張を頻繁に繰返すことになるので、石の組みにも影響が出ることもあるのだとか。
えー、お墓を建てる際には、材質も含めデザインは大切ですが(だってやがては自分も入る墓ですからね、気に入ったものであることは重要ですとも)、維持管理の点からのご検討もお忘れなく。
いやいや、そういうことが言いたかったのではなくて。
炎天下、お花を供えながら、義父にも孫を抱いてもらいたかったなあ、と思ったのでした。
子育ては人生設計の外にあったので気にかけることもなかったのですが、今になって子供ができるくらいなら、三年前でもよかったなって。
……親不孝をしたものです。
今日からお盆休みです。15日までの4連休。嬉しいな。
ところで母が「お盆は家には帰って来ないの?」というのですが、車で20分ぽちの距離を帰っても仕方がないというか、帰ったところで何があるわけでなし(ため息)
余所のお家は、といつものように繰返す母に、
「でもそういうお母さんも、盆正月に実家に帰ったこと、ないでしょ? お父さんも」
とうっかり言ってしまって、説教3倍増。
口は禍の元だと実感いたしました。
でも休み明けにちょっと顔を出して終わらせるつもりなんだけどね。
一人っ子って親の関心が集中しやすいから、余程気をつけてこちらから距離をとるようにしていないと、ほんと「ベッタリ」になっちゃうからなあ……。六十三と三十三の親子が友だち親子でベッタリして何が嬉しいんだか。わたしの主観のみならず、客観的にみても間違いなく気持ち悪いような気がするけど。
これで孫が生まれたらそれを口実にひっきりなしに出入りするようになりそうだと思うと、今のうちに何か理由をつけて我が家の鍵は返してもらうほうがいいのかもしれないなあ。
赤子だけでも大変だろうに、騒々しい母が常時一緒というのは一番勘弁してもらいたい。
なんでもお祭りにしたがる人だから、一緒にいると気が休まらないんだもの。
……そうか、お姑さんに来てもらおうかな。
母より義母のほうが気が楽ってヘンな話。
お遣いに行くとお駄賃をもらえることがありました。もちろん、もらえないこともありました。
もらえるかもしれないワクワクした気持ちを楽しんでいたように思います。
必ずじゃないから楽しくて、もらえたときには嬉しくて。
そのうち金品じゃなくて「ありがとう」そのものに価値があることに気がついて、気づいた自分が嬉しくて、みたいな。
なんかそんな子ども時代だったように思うんですけども。
「駄賃くれるなら行ってもいい」
っぽいことを母親と交渉している近所のガキを見て、いえ、お子様を拝見し衝撃を受けました。
働きに対して褒美が下されるのであって、事の正否には関わらず一定の褒美が保証されるなら働いてもいい、つーのはどうなのよ、と。
子育ての難しさを目の当たりにして、くらくらする夏の夕暮れでした。
わたしにできるんだろうか……。
上役殿が出張で、些細で軽微なことですが一部業務を代行しました。ちゃんと果たせたことが、ちょっと嬉しい。嬉しく思ったことを日記に綴れることがまた嬉しい。
わたしが今現在任されている仕事の中で、一番大きなプロジェクトは繁忙期の販売管理システムの構築だと思います。時間配分としては「片手間」に納まってしまう仕事だけど、製品開発から利益管理まで、ある程度会社全般の流れを把握していないとできないことを考慮すると、決して小さな仕事ではありえない。
しかも、ここで構築したプログラムが半ば永続的に使われてゆくのだから、責任は大きい。
数ヵ月後には確実に退職するわたし、しかもアルバイトに基幹に関わる箇所への権限を与えていいのかなーとか、思いながらもね、だけどわたしはそれを任せてもらえることが嬉しい。
信頼されているんだという気持ちと、信用に応えたい気持ちが、わたしに「いい仕事」をさせてくれるから。
いい仕事をすれば信頼はもっと大きく育つし、仕事への信頼は人格への信頼にも繋がってくると思う。もちろん「ある程度は」だけど。
そういうこともあって、最近では出産育児休暇の後は「ぜひ復帰してもらいたい」的な言葉ももらえるようになりました。
本当にありがたいことだと思います。
考える、ということはわたしにとっては趣味のようなものなので、それだけに危険が大きい。
考えることを楽しく感じるためにそこにどっぷりと嵌ってしまって(頭の中で思考を弄り回すだけならなんの労力もいらないからね)、行動を起こすまでに時間がかかることなどは、特にそのデメリットだと思う。
考えることと行動を起こすことのどちらが大切かというのはナンセンスだけれど、考えることと行動することのバランスが悪くなると支障が出やすいような気がする。
まあ、ただ、考える時間を減らすというのんはおそらく無理なので、考えた分だけ行動するという方向でもってバランスをとってゆきたい。
そういうことで体力向上のためのプログラムを考えるのは横に置き、とりあえず体を動かしてみました。
……でも、せっかく体を動かすなら、成果を効率を考えるべきだったと思ってしまう(苦笑)
癖って面白いな。
なかなか後任者は見つからないようです。
現在数人の応募があるようですが、採用するにな不安があるのだとか。
ううむ。そんなにもったいぶるほど難しい仕事じゃないと思うんだけどな……。それだけにかえって人選は難しいのかもしれないか。特殊技能が必要というのでもないから、選考基準を定めにくい、とか?
まあ、今のところ体調もよいですし、退職までの残りの時間をこれまでどおり楽しみながら、尽力してゆくつもりです。
人事や上司が採用に関して重要だと考えている点は、第一に仕事に対する責任感、第二に任された仕事を完遂する意志、第三に仕事をこなす能力と向上心。ひっくるめて「人柄」だそうです。
こうして書いてしまうとなおさら「改めて言うことじゃない」ような気もするんだけども、それはたぶん、わたしの持つ目が人事や上司に比べると俄然「節穴」だからなんだろうと思う。
わたしには「このひとで何がいけないんだろう」と感じられても、人を見ることにより長けた人の目には「論外、問題外」と映っているのかもしれない。
怖いな。
わたしにはわたしとその人の差がわからない。つまり、わたしも「論外」と見なされる可能性があるということだ。
評価するまでもない、という評価をもらわないために何ができるのか、考えるのを止めちゃダメだと思った。
もちろん、考えているだけじゃダメだけどね。
単に「片付けなければならない仕事」の量、として見るか、「確かな利益が保証されている仕事」の量として見るか。
出荷手配の諸帳票に対する目線の違いを改めて認識しました。
わたしはどちらかと言うと前者で、大量の出荷伝票を見ると「うわー、すごい仕事量だ」と思ってしまうことが多いのだけれど、わたしの上司殿は「うわー、すごい金額だ」と感じるようです。
同じものを見ているのに、わたしはそれを仕事の手間と感じ、彼は仕事が生む利益と感じる。
この差が、おそらく企業の経営に携わるべき人とそうでない人の差になるのだと思う。
わたしは経営に携わりたいと思ったことはないし、そんな未来を夢でさえ描いたこともないけれど、たとえ「経営」に興味がなくても彼のような視点を持つことは非常に大切だと思う。
目先のことだけではなく、その行動が何をもたらすか、というところで。
どんなことでもアクションを起こせば必ずなにがしかの結果が返ってくる(無反応でさえも結果と言えなくはない。)
その結果を予測することや自分にとって望ましい結果を導くための努力の方向性を見定めるためにも、目の前の事物を「その後」に結びつく連続性のあるものとして捉える力を磨きたいな。
大丈夫ですか、からは解放され、仕事は落ち着きを取り戻し、まったりと穏やかな時間が流れています。
もちろん穏やかならぬ事態も多少はあるのですけれど、それでも不測の事態を楽しめるだけの余裕が帰ってきたことが、まずは嬉しいかな。
たくさんの仕事に追われているのもやりがいがあってそれなりに楽しいんだけれど、忙しいとどうしても気持ちの余裕が減っちゃうからな〜。
どんなことでもそうなんだけど、かつかつやぎりぎりの状態はどうにもハングリーでアグレッシブな気持ちになりやすくて。
何もないほうが安穏としてられるってのは、不思議かもしれないな。
昨日、検診後立ち寄った本屋さんで購入した本に、
「準備ができると運命はやってくる」
的なことが書かれていて、なるほど、と思いました。
運命を動かすために努力していたその本の主人公とは違って、わたしの場合、努力をしている最中は決して「そのとき」ためじゃなくて、別の、そちらかといえばもっと軽い目先の楽しみのために頑張っているんだけれど、結果として「そのとき」のために積み上げた努力が使われる感じ。
簡単な例を持ち出すと、旅行や再就学のために溜めてたお金が、親族の入院費用とか慶弔に使われる、みたいな。
どうしてわたしがわりを喰うのよ、とか、自助努力って知ってる!? とか、こんなことのために頑張ってきたんじゃなーい、などと、もっと若いころは思ったものですが、いつの頃からか「ああ、このときのために頑張っていたんだろうな。よし、それならやれるだけのことはしよう」と思うようになって、そこから人生拓けた、みたいな。
厳しい出来事も、ある程度準備ができるまで待っていてくれるもんだな、と思ったこともあります。
執行猶予が設けられているのだから、猶予期間中に備えるべきなんだろうな、とも。
まあ、こんなハズではなかったと思うよりも前向きになれる分、人生も拓きやすいですから、よい連鎖の中に身をおきつづけられるのかもしれません。
……コンナハズデハナカッタと思うことも、今でも決して少なくはないんですけどね。
そう感じたときは、「いや、このために今までがあったんだ」と思いなおして頑張りたいと思います。
定期健診に行ってまいりました。今月から月2回の検診になるそうです。
中の人はあいかわらず元気です。最近はお腹の形が変わるくらい暴れます。
でも内弁慶なんでしょうかねぇ……検診に行くと小さくなっていることが多いです。前回などは、蹲ってましたよ、それもエコーに背を向けて。今日はめずらしくも口を動かしてる様子が数秒みられましたが。
おかげで今だ性別も不明。
呼びかけようにも名前は決まらず、ベビー用品は何一つ買えず。
少しずつ揃えてゆきたいんだけどなあ。
そういうことで帰宅後はベビー用品のカタログを眺めて過ごしました。
8月ですよ。早いですね。
なんだかこう、6月の末から7月いっぱいの5週間くらいの記憶が定かでない感じ。
忙しかったからなあ……。
当初の予定では今日から二度目の専業主婦期間に入る予定だったのですが、なんとなくこのまま8月も流れて行くような気がします。