気遣いはありがたいんだけど、窮屈にも思います。
わたしの働きに対して「無理はしないでくださいよ」というのはうれしいんです。わたしの働きを肯定的に受止めてくれた上での言葉ですから。
でも、「いいです、いいです、わたしがやりますから、休んでいてください」という感じで、仕事を取り上げるような気遣いはうれしくない。いや、正直に言うと、少なからぬ不快感を覚える。
基本的に人を気遣うことが下手なのか、そういう気遣いをこそ嬉しいと思えばこその対応なのか。
見くびられているようにも感じるし、嘗められているようにも思われる。
そもそも仕事に来てるのに仕事をさせてもらえないなら、わたしはなんのために出勤してるのかなって思うんだよね。それなら最初から家でのんびりしてるほうがずっといいし。
無理なくできるからやっているのであって、無理やりやらされているのでもなければ、我慢しているのでもないのに、どうしてそうやってわたしを仕事から遠ざけようとするのかなあ、と。
きっと彼女はデスクワーク以外の仕事が好きじゃないんだろうな。だから身重のわたしがデスクワーク以外の仕事に携わることを「かわいそう」だと考えてしまうのかもしれない。
だけどわたしは今回、デスクワークよりも現場指揮補佐の力を買われて採用されたのだから、そこを「やらなくてもいい」と言われると、納得しがたいんだよね。
いろいろと話をしていると、彼女は「早く家庭に入りたい、そしてよき妻よき母になりたい願望」が強いみたいだから、「家事もその他の主婦業も嫌いではないけれど格別コダワリをもってやりたいことでなし」というわたしとは、根っこの部分で通じないんだろうな。
わたしはね、やりたいと思ったことしかやれない人間だから、やってること(=やりたいと思ったこと)を邪魔されるのが一番嫌い。それをたびたび邪魔されたら、できることは何もなくなる。そんなのつまらない。
わたしがちょっと卑屈になってるのかもしれない、とは思いつつ、「この子はわたしの仕事の邪魔になる」感が否めなくて困ってる。
女なら誰もがあなたと同じように、家事と育児に幸せを見出すわけじゃないんだけども。
まあ、小娘にそれを言ってもわからんわなあ。……受け流すしかない、か。
で、馴れ初めはどうなのよ、と訊ねてみたところ、
「それは、まあ、こうしながら話しましょ」
と、杯を傾ける真似。
素面だと照れちゃって話せないそうですよ、可愛いなあ。
そのくせ恋人を褒めることには臆面なく(彼のそういうところがわたしはとても好ましいと思う)、ただちょっと心配だったのは、4月に別れた彼女との比較が常時入るところ。
「ね、前の女とは全然違うでしょう?」
外見も、性格も、気性も、好みも、揃えたように正反対なんですって。聞いていると確かにそんな感じ。
でもそれは前の彼女を思い出すことがないように、対極の要素を揃えたひとを彼は無意識に選んだのだと思うのです。
それって取りも直さず、前の彼女のことをまだ忘れてはいないということだから……。
あまり比較しないほうがいいんじゃないかな、と言うと、「でも、俺、まだ許せてないから」
今の彼女に対して、前の彼女をこき下ろすことで傷を癒そうとしているのかな。
だけどね。
「もし、あのとき別れていなければ、今の彼女とは出会ってないよ」
「……」
沈黙が気になるところだけど、うまく乗越えてきっと幸せになってくれることでしょう。
大丈夫。今傍にいる人のことをたくさんたくさん思って、たくさんたくさん考えるうちに、過去の人のことは、穏やかな思い出になってゆくから。
本人の気持ちが不安定なときは、まずは周囲が信じてやらんとね。
パートさんから息子の嫁についての話をお聞きしたのですが、感想としては、
「親の愛ってすごいなあ」
というところ。
息子さんのことがとても大事で、お嫁さんにも息子さんを大事にしてもらいたいと思ってる。下にも置かない扱いを期待している。
だから、お嫁さんが息子さんにする「お願い」に心を痛めている様子。
お嫁さんのお願いの内容としては、たとえばゴミ捨てだったり、布団干しだったり、洗濯ものを運ぶのだったり、古紙回収だったり……まあ、大雑把に見て力仕事かなー、と。
話を聞いてゆくと、お嫁さんのお家ではそういったことはすべてお父様がなさっていたそうなんですね。
でも、そのパートさんのお家では旦那様はそういったことはなさらなくて、全部そのパートさん、つまり奥様がなさっていた。
「だからわたしは息子には動くようにといって育ててきたんだけど」
やっぱり息子さんがそれをやっている姿をみるのは不憫なんですって。
「嫁にあれやって、これやって、って言われてこき使われているのをみるのは本当にかわいそうで」
ううむ。
たぶんね、息子さんは母親に「家事を手伝うこと」を教示されて育ってきたからだと思うの。
一人暮らしはしたことがないから、自発的には家事ができない。一人で頑張っていた母をみて育ってきたから、自分は妻を手伝いたい。でも、どこをどう手伝っていいのかわからない。
結果として息子さんはお嫁さんの指示を待つことになり、指示に従って動かざるを得ない。
それが母親の目には、「こき使われて」いるように映っている、と。
あなたの教育の成果ですよ、妻を気遣う心優しい息子さんに育ってよかったじゃないですか、とお慰めしたのですけれど、納得していないご様子で(苦笑)
「使われてる息子を見ると不憫で情けないのよ。どうしてあんな嫁に」
……そうだなあ。もし一人暮らしをしたことがあるなら、家事をすることは当たり前なんですよね。手伝うという感覚ではなくて、自分でするもの。
だから誰かと同居することになった場合、やり方の流儀で折衷してゆく感じ。対等にね。
だけど自活したことがないと家事は「自分でやる」ものじゃなくて、「やってくれる誰かを手伝うもの」になっちゃう。手伝いという立場は「指揮下におかれる」ことに似ているから、「使われている」空気が漂ってしまう、ということなんじゃないかな、と。
「子育てまで手伝わされてるのよ!」
と叫んでいたことには、そこは「手伝い」じゃ不十分でしょう当事者なんだから、とは思ったものの、大きくなって嫁をもらって、孫までこさえて、それでも母にとって子供は庇護の対象なんだなあ、と思ったわけです。偉大なり母の愛。
でもね。
お嫁さんのご両親も、もちろん娘さんを愛していて、大事にしてもらいたいと思っているのですから、息子さんが得る愛のことだけを一方的に考えてはいけないんじゃないかなって、思うな。
むしろ与えられる息子さんであることを、誇りに思っていいのにね。
同じ敷地内で働いているにも関わらず(期間限定)、なかなか話す機会に恵まれない友人が、今日はわざわざ休み時間にわたしを訪ねてくれました。
ありがたいことです。
時間がおしていたので交わせた言葉は実質ほんの二言、三言なんですが、その二言、三言のために来てくれたのがうれしいな。
いろいろね、聞きたいこと話したいことはたくさんある。たぶんお互いにね。
だけどそれは、まあ、まだしばらくはお預けでもいいかなって思いました。その時間を楽しみに過ごすのも、悪くないし。
問題は、いつその時間を確保するかなんだけども、こればっかりは「いつか」が与えられるのを待っているのは性じゃないので、時期をみて折りをみて設定するぞ、とな。
親しくない人にプライベートを訊かれるのは煩わしいのだけれど、親しくなりたいと思ってくれたからこそ訊くのだろうと思うとなかなかにジレンマ。
無下にするのは心が痛むし、我慢を続けるのは胃が傷む。
親しくなってしまえばね、ある程度は平気なんだけど。
そういうことで、できるだけその人とは休み時間を共有しないようにしているのだけれど、ランチに誘われて「うへぇ」という気分。
その人が好むプライベートな話題、主に家事育児の(大変さについての)話に興味はないし、休み時間に仕事の(大変さについての)話はしたくない。
なんていうか、病気自慢に似たオチが多くて、ついてゆけないんだよね。
あれもこれも大変なのよー、とにかく全部が大変なのよー、本当に大変なんだからー、すごいでしょー、すごいでしょー
わたし的には、
あれもこれも楽しいんだよー、とにかく全部が楽しいんだよー、いいよねー、幸せだよねー、本当に楽しいよー
の方が話していても聞いていても心地よいので……。
いや、本当にね、苦しい時は毒づいてもいいと思う。
そういう毒は丸ごと呑んでさしあげる。わたしでいいと言ってくれるなら、皿まで砕いて跡形もなく呑むともさ。
親しさの度合いにもよるけども。
で、あらためて親しい面々を思い返してみると、後者が断然多くって。
不平不満の感覚の共有から仲良くなるっていうのは、わたしには難しいみたいだ。
克服できれば、「親しい人」にカテゴライズできる人がきっと倍増するだろうになあ……。
努力はしてるんだけどな……やっぱりちょっと逃げ腰になる。
お仕事、楽しいですか?
そう問われることが多いのだけれど、仕事を「楽しい」「楽しくない」で量るところがわたしにはないから、実はよくわからないんだよね。
人から見て楽しそうに見えるなら、たぶん楽しんでいる部分も大きいのだと思う。
ただそれは仕事の成果によるものだから、成功すれば楽しいけれど失敗すれば凹む。当然か。
だから楽しくあり続けるには、少なくとも失敗しないことが大前提で(挽回するのもやりがいはあるけどね)、そのためには相応の努力が必要で、努力にはときに苦痛も伴うものだし、そうして努力したことが全て報われるわけじゃない。
わたしが仕事中の私語を好まないのも、きっとこれが理由だと思う。
プライベートに傾くと、オフィシャルに隙ができる。隙ができれば、失敗するリスクもあがる。失敗すれば「楽しくない」では済まされない。でしょ?
そういう緊張感も今は全部楽しいけれど、「楽しい仕事なら続けてもいいんだけど」的な発言を聞かされると、返答に困ってしまいます。
仕事のに関わらず楽しみは自ら見出すものだもの。「はい、これは常に楽しいお仕事ですよ。請け合いますからいかがです?」と提供されるのを待っていては、いつまでたっても楽しい仕事になんて携われないんじゃないかと思う。
仕事とは直接関連をもたない楽しみ(同僚と呑みに行ったり、遊びに行ったり)は、あくまでも「余禄」でしかない。職場を社交場と考えて入場許可をもらう代わりに仕事をする、というような考え方は、どうしても受け入れがたく感じてしまう……。
というか、交友の場は職場とは別に、できれば複数持つほうが、いろいろ気楽だと思うんだけどな。ま、考え方の違いかな。そういう差異もできるだけ広く受け入れてゆきたいね。
疲れているつもりはないのですが、休みになるとついつい寝過ごしてしまいます。それから昼寝。
だから1日が短くて、なんだか忙しくも感じてしまいました。
ゆっくりと休日を楽しみたかったら寝てちゃだめだよなあとも思うし、ゆっくりと眠れてよかったなあとも思う。
まあ、どちらにしても明日からはまた仕事なので、英気養って頑張りたいです。
友人の奏でる響きをsus4だと言えるのは、君がたとえる音楽が少なくとも近代以降のものだからだよ、と言われました。
「だから古典的、伝統的な交友関係を重んじる人には、君の言う『友人』の存在は、極めて異質に響くかもしれないね」
ううむ。なるほど。
たとえばジャズとバロックじゃ、和声の使い方は違うし、それに対する感覚も違うものなあ。
音楽の歴史を思い浮かべてみても、ジャズのリズムや和音は初め「異質感」を伴って受けとめられていたし、そういう響きもまあ普通だよねと捉えられるようになるまでには、結構な時間も必要だった。
「古典的な音楽にsus4は雑音になりかねない。『むしろないほうが』いい音に含まれることも大いにある」
だからことは音だけじゃなくて、音楽そのものを、相手の思う音楽に合わせてゆく資質と能力が、人付き合いには問われると思うよ、とその人の言葉は結ばれたのでした。
で、思ったんだけども、「相手の音楽に合わせる」資質と能力を問う感覚は、その人がジャズプレーヤーだからかな、と。わたしもジャズは好きだけど、好きなだけで造詣は深くないから、そこまで考えられなかった。
楽譜にない旋律を数フレーズで理解して、受け入れて、それに合わせて音楽を作り上げてゆく柔軟性って、確かに人付き合いにも大切なことだと思った。
……わたしは中途半端に頑固なところがあるからなあ。
友人というのは和音でいうとセブンスとかナインスのような、すこし不安定な響きを作るものなんだろうな、と思う。
解放しきらない響きがここちよいかも、と。まあ、流れによってはそれできれいに解放されることもあるんだけど。
対して家族というのは時折増減されていつもと異なる響きを作る(augやdim)ことはあっても、基本的には解放された和音のような気がする。
どちらも適度な音を加えながら日常というバリエーションが奏されている感じ。
で、自分をルートに友人を7や9やなどなどの音の要素だと考えるとき。
えーと、たとえば自分がCなら、相手はHやD。メジャーかマイナーかは主に第三音を構成する人の持つ音との人間関係に依存するから、大局で見ればこの音はあってもなくてもいいのかもしれない。
ただ、あるほうが、音楽に深みや華やぎがでることが多いし、バリエーションも豊かになるような気がする。
ここまでは、自分をルートと考えたときなんだけど。
でも、常に自分がルートとは限らないわけです。
友人をルートに考えたとき、自分の音が相手にとってなんであるのか。相手の立場で考えようと言うのんはこういうことなんだろうか、とか。
うまくまとめられないんだけども、相手にとって自分がどういう響きを作っているのかを慮る心があれば、「むしろないほうが穏やかな7#11」とか「短三音」という申し訳ないことにはならない。
特に短三音の場合なんかは、ちょっとだけ音程を調整して、短三音から一音上がってsus4とか、半音下がって9に納まるようにすれば、響きよく心地よく、穏やかにつきあってゆける。その人にとってホントウの第三音が見つかったときにも、変わらない響きをたもってゆける。
7#11も同じで、7sus4になれれば「いないほうが」とは思われなくてすむ。
どうしても譲れないときは、せめてその人にとって己は7#11だってことを意識して、ちょっと控え目に奏でるくらいがいいのかな。
それが人付き合いの心遣いなのかもしれないなあ、と思ったのでした。
出張から一時帰宅した旦那は、帰宅と同時に「例のビデオは?」
そうか、君はこれが初めて見る我が子になるんだっけねえ、と飲み物を用意して鑑賞会。
「うわー、すげー」をくどいほど繰返しての二分半。
「……え……これだけ? もう終わり?」
そういうことで、4,5回繰り返して旦那は見てました。
喜んでもらえているのは嬉しいんだけど、わたしにとっては今もまだ「青天の霹靂」的なところもあって、複雑感拭い去りがたし。ほしいと思ったことは、本当になかったからなあ……。
むしろ日に日に育つ腹と同じく、複雑な思いも育っているようにも思うのですが。
まあ当初感じた「そんな人生、わたしは要らない」というような否定もなくなりつつあるので、人間って変われるものだとも思うのでした。
や、ほんとに最初はね。
軽蔑されるかもしれないんだけど、育児用品の広告で「はやく赤ちゃんに会いたい」系のあおりを見るたびに、めまいと頭痛と吐き気と息苦しさに倦怠感と厭世観まで覚えてたんです。
それが今や「複雑」程度に軽減されてきているのだから、ま、わたしの適応力もなかなかのものですよ。自分で自分をほめてやらんと。
だって他には誰も褒めてはくれんしー(相談したことがないから当たり前か)
そう思っていたら「よく耐えてるな。本音のところは相当不本意だろうに。ありがとう」と旦那に頭を撫でられて。
そういえばこういう人だから伴侶に選んだんだっけなあ、と、○年前を思い出すのでした。
……ちょっと悔しいな。つまるところ、手綱を握られたままなんだから。
わたしだけが手綱を握られっぱなしというのも悔しいので、明日は人の手綱を楽しく振り回してこようと思います。
休息の楽しみも、「ほしい」と人にねだる前に、自分で獲得するべきだよなぁ。
と、思いなおして本日。
休憩時間および就業後の楽しみを得るべく、真っ当に努力してみました。
案外、簡単に手に入った。あまりにもあっけなかったので、やっぱり文句をこぼすよりさきに、すべき努力をすべきだと思いました。
もちろん休憩時間、終業後の楽しみは、やるべき仕事をきっちりと、寸も残さず片付けた上で。
ところで5月に失恋した友人は、つい最近新たな恋人を見つけたようで、若いってのは素晴らしいことだと感心したのでした。まあ、でも若いうちは数をこなすのも修行だと思う。
心を込めてたら数はこなせませんよ、とか、そんなことを言っていた人もいたことですし。
数はこなさなくていいからそのひとつに心を込めろ、という年齢には、まだ少し猶予もあるわけで。
で、今日は恋人の家からご出勤ですってよ、いやん、素敵ー。そのとろけた顔が実に好い!
馴れ初めなど興味深いので、機会があったらぜひとも伺ってみたいものです。
六ヶ月検診に行ってきました。中の人は順調に育っている様子。
最初に見たときは、卵の黄身にくっついてるヤツみたいだったのに(それがクルクルクルクルクルクルとひっきりなしに動き回っていた)、今はすっかり人の形になっていて進化したものだと。
大きさはまだ猫の子くらいなんだそうですが。
今日はエコーの画像を録画してもらえたので、旦那が出張から帰ったら見せたいと思います。
午後からは出勤して、上役殿の補佐をあれこれ。最近はすっかり秘書状態なんだけど、まあ、裁量の権限もそれなりに頂いていたりするので(アルバイトなのにいいのかな)、やりがいはあります。
ま、やりがいのない仕事なんてないんですけどね。やりがいも楽しみも、たぶん自分で見つけるべきものなんだと思います。
……いや、違うか。見つけるとか考えるとかじゃなくて、きっとなんとなくでいいから感じるものなのかな。
昼休みにちょっとした息抜きくらいさせてほしい、と思う本日。
友人と昼休みに話をしていたら、上役殿に仕事を頼まれました。
急ぎじゃないなら休み時間が終わってからにしてくれてもいいのになあ、などと。それが甘えであることはいかにも承知ですが(ため息) だって上役殿は昼休み返上で働いているからね。
でも、彼と話をしようとすると必ずといっていいほど急ぎとはいえない仕事を言いつけられるので(あるいは要件もなく呼びつけられたりね)、ちょっとしたストレスになってきています。
それも休み時間のみならず、就業後も仕事の追加があるとか……。
まあ、たまたまそういううれしくないタイミングになっちゃってるだけなんだけど、うっすらとした不快感を覚えることは否めない。偶然だろうが必然だろうが、面白くないことに変わりはないわけです。
ヤキモチの一種なのかな、とか思う。
自分が(それほど好きでもない)仕事をしているときに、その傍らで楽しげに遊ぶな、とか、そういう感じで。
その気持ちはよくわかる。現状わたしだって不本意な仕事に打ち込まざるを得ない状況なんだもの。そういう中で、楽しそうな時間を過ごしている人を見ると、確かにもやっとした気持ちにもなろうさ。
だけど気持ちが晴れないのは「やりたいことができてない」からであって、「やりたいことをやってる人がいる」からじゃないんだよね。その人の邪魔をしたって、もやっとした気持ちは消えないと思うんだけどな。
ともかくも、わたしの精神衛生上、就労時間外くらいは自由にさせてよー、というところ。
ま、自由にしちゃうかな。
「午後からでよろしいですか?」「明日でもいいですよね」とかってね。
今は勤務時間外だから火急の仕事でないなら引き受けないよ、と伝える必要はあるかもしれないな。
わりとご機嫌に過ごせたような気がします。たぶん、不機嫌になりそうな要素は覚えないことにしていたからじゃないかな。
唯一覚えているのは、食事中の話題について。
わたしは職場で妊娠・出産の話をするのは嫌いです。仕事の邪魔、とか、公けの場で私事を、とか、そういうことじゃなく、親しくもない男性諸氏が数多いる中(親しくたっても素面じゃヤダね)で、そういう話をするのが嫌いなんです。恥じらいがない。
ところがそのオバさん(年齢的に言えばわたしと大差ないんだけど)、飯をぱくつきながら
「悪阻が」「破水が」「胎盤が」
味噌汁啜って、
「臍の緒が」
あまつさえには「悪露」にいたり、箸を振り回しての大熱弁。
食事中に聞きたい話じゃない上に、相席しているのは他部署のボウヤ。
あまりにも聞き苦しいので食事も半ばで切り上げて、お先に失礼してまいりました。
本当はさりげなく話題を変えてあげたほうがよかったんだろうけどねぇ……。同性として見るに忍びなく、早々に逃げ出してしまったのでした。
おかげで午後からは空腹で、微妙にアグレッシブ。憂うつになる余裕などありませんでした。あー、ありがたや、ありがたやー。
そういうことで、まあ、なんとなく憂うつ週間からは脱したようです。
何が転機になるか、わかんないもんだな。
そうそう。夕方、ちょっといいことがあって、今日はそれだけ大事に胸に抱えて休もうと思います。
わりと今まで獣的な本能で、つまり脊椎反射で生きてきたわたしにとって、ここ最近の脊椎では判断できない類いの、あるいは大脳辺縁では処理できない問題の連続が、ストレスの根源になっているのかも、とか思うのでした。
文明って厄介だわ、進化って大変だわ。
でもそれを拒むならここで死滅するしかないわけで、命かけてまで拒むほどのコダワリもない以上、なんとか上手くこの変化を渉ってゆくしかないのでしょう。
そういうことなので、過渡期が苦しいのは当たり前だと自分を慰めつつ、明日は是が非でもご機嫌に過ごしてやろうと思います。
楽しいふりをしているとその場は楽しいような気にもなってきますし、日々幸せそうに過ごせているのだから、まずまず幸せなんだろうと思うのですが。
反動は大きいな。
ふとした折に、何もかも白紙にしてしまいたい気持ちになります。わたし自身をね、無くしてしまいたい。
これは病気だと自覚する部分も小さくはないけど、わたし以外の誰に治せるものでナシ(ため息)
理由もみかえりも求めずに泣かせてくれる人がほしい、と思う夜半。
こういうときは旦那じゃだめなんだよなあ。近すぎて半ばは「自分」だから、自分で自分を弁護して、叱咤して、激励するのに似て、効果が望めない。贅沢なワガママだな。
泣かせてくれと頼めば事問わず、もちろん無償で甘えさせてくれる人もいなくはないけど、そのあとを考えるとね……これもまたResetしたい記憶になるのは間違いないだろうし。一度縋ってしまえば、二度と対等には戻れない。わたしの中に必ず負い目が残る。
だから、結局ひとりだと思うわけ。
ひとりでケリをつけなくちゃならないんだよ、だって自分の内部で蟠ってるものだから。
まあ、うん。この攻撃的で破滅的な思考が、外に向かわないだけ健全だと思うしかないか。今のところは。
そのうちこの鬱々とした気分も流れて流されてゆく。
わたしは気分屋だからね。今日は憂うつを楽しむ日だったのだと思うことにした。