Diary

6月15日(木)

 気まぐれに連絡を取り合うことのできる友人は得難いです。
 連絡しなくては、返事をしなくては、と毎日考えながら過ごすのは、正直、わたしには苦痛なので。
 互いになんとなく思い立って連絡してみて、返事があってもなくても催促ナシで、急がず、待たず、でも、忘れず。いや、平素はこれもお互い忘れてるかもしれないな(笑) 思い出したときに連絡してみて、返事があれば満足、なければまた忘れておく。忘れたころに返事があって、気が向けばそれに応じる。向かなければ受け流しー、みたいな。
 そういう義務も権利も発生しない結びつきの緩い穏やかさが好き。
 だって、義務も権利もないのに、それでも離れないのは互いに互いが好きだからでしょう? そういう好きってすごく大事だと思うのね。気持ちだけでゆるーくながーく繋がってる。とても心地好いです。
 まあ、唯一の難点は、そのまま互いの気持ちがゆるゆると離れていってしまう可能性なんだけど、これは約束で固めておいたって一緒です。離れるときには離れる。
 むしろ「約束」を壊して離れてしまった場合より、和やかに距離を戻しやすいっていうのかな。
 もともと互いの間に決まった空間も時間もないから、遠ざかっても近づいても、それで変わるものはない。
 で、今日はそんな友人から連絡があって、ほっこりと温かい気持ちになりました。
 ……いい感じに餌付けされてる気がしなくもないけど、そこもまあ、オタガイサマ。だよね。

6月14日(水)

 久々に運動らしい運動をしてみたら、夕方には凄まじい筋肉痛に。
 わき腹が痛い〜。
 いかに運動不足だったかを実感する今日です。
 日常、歩いたり、階段を上り下りしたり程度の動きは、やっぱり運動のうちには入らないんだなあ。
 それでも意識しないよりはマシなんだろうけど。
 ま、今日壊れた筋肉が再構築されるのを待って、また筋力トレーニングとストレッチだけはやるように心がけよう……。

6月13日(火)

 好かれ慣れ、は大事です。慣れて当たり前になってしまってはいけないけれど、示された好意を素直に受け取ることができないのは損だし、なにより相手に失礼だと思う。
「キサマの好意は受け取れーん!」
 的な振舞いは、照れ隠しでもやめたほうがいいんじゃないかな。
 じゃあ、好意を素直に受けとめることに慣れるためにはどうしたらよいかというと、これはたぶん、まず自分が相手に好意を示すことに慣れること。
 そういうように感じるのだけれど……。
 難しく思えてしまう人にはきっと難しいことなんだろうなぁ。
 ……。
 こと恋愛に関しては、とうに現役を引退しているから言えることかもしれないけども。上から目線ぽくてごめんとも思うけども。
 女友達の一挙手一投足に目を光らせる暇があるなら、その暇はむしろ意中の男の一挙手一投足にこそ費やすべきなんではないかと……ついでに女同士陰口叩くより、意中の男に愛を語れ、と……。
 事は恋愛に限らないけど、ネガティブキャンペーンに終始するようになると、人生に疲れちゃうぞ、とな。

6月12日(月)

 責任感の強さも場合によりけりだなあ、と思う。
 取引先の坊やなんだけれども、仕事に対する責任感と自負の強さから、すぐにかーっとなるもよう。
 意欲満々で燃えてるのはわかるし、それはもちろん悪いことじゃないけれど、
「俺の仕事に傷がつく」
 ことを恐れるあまり、スジの通らないことを言うのはよしたがええなあ、と思うしだい。
 自分でもたぶんわかっていると思うんだよね、パニックを起こしていることは。そこには道理がないことも、おそらくわかってる。退くに退けなくなって噛み付いているのが電話越しにも伝わるくらいだから。
 でも、人の命や進退に関わるような不手際ではないんだもの、もうちょっと落ち着いて対処できるようになるといい。
 確かにその不手際で気分を害する人がでる可能性は否めないけれど、害してしまったのが「気分」なら誠心誠意尽くすことで挽回はできる。むしろ、自己弁護のために取引先や関連業者にあたり散らす時間を、顧客の心象フォローに使うほうが有意義なのではないかいのぅ。わたしはそう教わったものだけれども。
 つか、彼の上司はいったい何をやってる? 部下の仕事のフォローもせずに、ただ叱り飛ばすだけの強迫的な上司なら、彼のあのパニックぶりも頷けなくはないのだけれど。
 仮にそうだとするのなら、部下が失敗するのはアンタが部下に教えないからだ、部下に教育を施す暇もないほど忙しいのだとしたら、それは部下をちゃんと育てないからだ、と言ってやりたい。

6月11日(日)

 ぐうたらしたかたんだけど、レポートが溜まっててそれもできなかった日。
 ひと月早くに行動を起こしていればね……後でいいやは悔いのもと〜。

6月10日(土)

 争うことと競うことは違うよなあ、と思った本日。
 どう違うのか考えてみて「競うこと」の目的は「互いに伸びること」なんだけど、「争うこと」の目的は「相手を負かすこと」なんだろうな、と。
 たとえばハレムがあって、そこに美女がたくさんいるとする。
 美を競い、寵を競うとき、彼女たちは美しく、また愛されるように努める。
 美のために健康を慮り生活習慣を省み、寵のために知性を養い所作いのひとつひとつに気を配る。
 そういう集団はまさに百花の園に相応しいだろうな。
 でも、美を争い、寵を争うときは違う。
 だって、相手を負かせばいいのだから、己を磨くことは必須ではない。むしろ、相手が醜くなってくれればそれで済む話、になる。簡単じゃん、と。
 つまり争いは、足の引っ張り合いでも十分に成立するわけだ。
 まあ、それで勝ち名乗りを上げる女が、歴戦の証として鼻が削げていようとも、目玉が刳り貫かれていようとも、耳がなくなっていようとも、勝者には違いないんだよね。歯が折れて発音不明瞭で、脳障害が残ってしまっていても、異議を申し立てる者、ようするに彼女と争おうとする者がいなければ彼女が勝者だ。
 争う前の彼女と比べてその美貌がどの程度劣化していても、敗者よりはマシなんだろうから。たぶんね。
 知性や教養だって似たようなもので、相手を負かせばいいのなら、それこそ一服盛ってやれば済むのかもしれない。そうでしょう?
 ええ、生臭い例えですみませんとも。
 何が言いたいかというとね、競い合うのはいいんだけれど、争ったらダメだよ、ということ。
 誰かと競うのは、競い相手を自分の成長をよく知るための、わかりやすい目安に据えること。
「去年まで、わたしはあの人よりこの点で劣っていた。今年、やっと並んだように思う。でも来年には越えらるかもしれない」
 あるいは、
「わたしは昨年より確かに成長している。けれどあの人はわたし以上に成長している。ではわたしにも、もっと努力できるはずだ」
 そういう目安。定規で秤。
 それを忘れて争いあうと、とんだことになりましてよ、お嬢さん。
 と、思ったの。
 足を引っ張り合ってると、結果として争いには加わらずに傍観を決め込んだひとが利をおさめるなんてこともままあるわけで。
 ご注意されたし、とな。……わたしもな。 

6月9日(金)

 離れていても気持ちは通じる。だけど、通じる気持ちは都合の良いことばかりとは限らない(笑)
 そういうことを考えた一日。
 ついついうっかり都合の良いことばかりが伝わることを期待するんだよね、人は。
 それでいて、自分にとって都合の良いことが伝わらないことに、もどかしさを覚え、都合の悪いことが伝わってしまったときは驚愕する。
 面白いなあ。見ていて本当に厭きない。
 わからいでか、と言ってやりたいけど、それは口にしないのが温情か。
 たぶんこういうわたしの気持ちも、ダダモレ的に伝わってゆくものなんだろうな。
 気にしたことはないけど(気にしてもどうしようもないし)。

6月8日(木)

 物怖じしない、というのは、たぶんわたしの長所の一つだ。
 でも「物怖じしないこと」を意識したことはない。
 わたしは普通にしているだけ。
 思ったこと、感じたことを述べる、したいことをするのは、わたしにとって当たり前のことで、怖じるようなことじゃない。逆に、どうしてそれを怖じなければならないのか、わからないのが正直な気持ちだ。
 だから「わたしは物怖じしない性格で、それはわたしの長所のひとつだ」というように考えたことも、振舞ったこともない。
 長所ってそういうものだと思う。当人にとっては当然すぎてわからない。短所も似たようなものだろう。もっとも短所は長所と違って、よくよく認識しておくことが大事だけれど。そうじゃないと周囲に迷惑をかけることにもなるから。
 就職活動のエピソードを聞いていて、「これが自分の長所である」というアピールをするのは大変だというくだりがあったのだけれど、普通にしていればいいんじゃないのかと思った。
 普通にしていても彼は十分魅力的だし、わたしには好ましく感じるんだけどな。
 彼は周囲を大事にする、そして大事にしていることをなるべく悟らせないように気遣う。おおらかで、さりげない。
 これはとても奇特な性だと思う。そして長所だと。
 人の「好さ」はアピールされて感じるものじゃない。アピールされているものには時として「演出」が加えられていることは、たぶん面接官も知っていると思うんだよね。
 まあ、だけど、最高の自分を探求して、それを人に評価してもらえる機会ってそうそうないから、ここはひとつ俳優になった気で頑張ってくれるといいな。
 演じて背伸びするうちに、それが身についてゆくことも多いしね。
 ……だから偽悪的なこともしないほうがいい。偽はいつか真になってゆく。

6月7日(水)

 朝の気持ちよい空気の中、片道40分くらいの道のりを、のんびり歩いて定期検診に行ってまいりました。
 水曜定休っていいなあ、と思います。仕事を休まなくて済むし、役所も銀行も病院もやってるし。
 でも来月はどうだろう。繁忙期になればお休みも、もらいにくくなるかもしれないな。
 といって、週休1日ではさすがに辛くなるだろうし……今は平気だけど、来月はわからないからなあ。
 まあ、うん、どうにか都合するしかないのだから、なんとかするか。
 勉強のほうは、もう、腹括ってやれるところまでにしました。提出期限まであと10日、仕上げなくちゃならないレポートは5講座、12レポート(^^ゞ
 こういうときに「まだできていないこと」を考えてもしかたがないもの。これからやれることを考えて、できるかぎり遂行するしかないわけで。
 結局どんなことも(主に覚悟と行動の点で)自分しだいなんだよな、と思います。

6月6日(火)

 好きなものは好きだと表明する。
 言葉で、表情で、空気で、態度で、なんでもいいからとにかく表す。
 歓迎していること、嬉しいこと、喜んでいることを伝えるのは楽しいし。
 でも、好きじゃないものについては、特に表さなくてもいいかなー、と思う。なんか面倒だもの。
 だから「好ましくなかった物事の記憶」よりも「好ましかった物事の記憶」のほうが、わたしには強く刻まれるんだけれども、中には反対の人もいて、それはちょっと可愛そうだと思う。
 生死に関わるような重大な不快であれば、まあ、それは覚えておいたほうがいいことではあるけれど、日常の些細な不快は、忘れちゃうほうが……というか、最初から覚えないほうがラクなんじゃないかなあ。
 私事だけじゃなくて仕事も「こうしたい」を伝えるのは大事だけど「こうしたくない」は言わないほうがいいことが多い。
 ……なのに「こうしたい」という主張ができなくて諦めてしまう人や、「したくない」主張に夢中になってしまって「どうしたいのか」まで考えが及んでいない人を今日は間近に見て、なんだか切なくなってしまった。
 言わずに諦めたらだめだよー我慢で変わるものはなにもないよー、何がしたいのかはっきりしていない段階で「したくない」だけ繰返してもただのワガママになっちゃよー。
 どうしてそんなことになってしまうんだろうな。
 言葉にされない部分を汲めるほど心が近しくない人とのコミュニケーションに、「わかってくれてもいいのに」は通用しないんだけどなあ……ああ、もどかしい。

6月5日(月)

 某大学のスクーリングの条項に「化粧不可」というものがある、と同僚たちに話す。
 第一声
「ふざけんな」
 まったく同感ですとも。
 すっぴんは、時に「オマエごときには寝起きの顔で十分だ」という宣言にもなりかねない。
 化粧は社会人の身だしなみだとわたしは思う(アレルギーなどの理由でできない人は別)。
 大学生になってまで(法的にも成人とみなされる年齢の人が半数に至るであろう環境でまで)、それを禁止する意味ってなんだろうな。
 学習の場は一応フォーマルな場であるから、ジーンズやTシャツ、キャミソール(作業着や下着に端を発する衣類)の着用は避けましょう、という項目については納得できなくもない。だけど一応でも「フォーマルな場ですっぴん」はありえないだろ、と思うわけ。
 スーツにすっぴん、ドレスにすっぴん。
 あらま、なんのご冗談? みたいな。
 いっそラフな格好(下着や作業着)なら、すっぴんも相応しいと思うけどねぇ。
 そういうことで、話の流れは「某大学の学生課に務める人たちを見てみたい」に。
 すっぴんだったら、ある意味感心するかもしれないな。決して倣いたいとは思わないけど。
 化粧してたらきっと笑っちゃう。
 だって、本音では「ノーメイクはフォーマルな場に相応しくない」と思っているのだろうから。

6月4日(日)

 バラ園に行きました。一口にバラといってもその個性は千差万別。同じ株の同じ花でも違う。たとえば咲きかけの花と、三分咲き、七分咲き、満開、散り際の花では心象がまるで違う。
 そのときは人もそういうことかなって思ったんだけど、今は何がそういうことだったのやら(笑)
 わたしは一重や半八重の平咲き、やや小ぶりの中輪で、白に近い色合いのバラが好き。今日「花霞」というバラを見て、まさにわたしの理想とするバラだなぁ、としばらく見惚れていました。
 花びらの中心が白く、外に向かうにつれて艶やかな桃色に染まる花です。
 一輪ずつの花姿も大好きなんですが、株全体を見たときの美しさは格別です。
 やわらかな緑の葉、花よりも一段と鮮やかな色合いの蕾、開きかけの花の慎ましやかな風情、開いてなお清楚、散り際の花でさえ可憐!
 あんなバラの似合う人になりたいなあ……。
 青いバラも見てまいりましたが、青いバラは育てるのが本当に難しいのでしょうね。色も形も美しいのだけれど、どこか儚くか弱い印象で……。
 わたしはやっぱり野生種に近い姿の花のほうが好き。

6月3日(土)

 体重計に乗りたくないこのごろ。中の人の重量とは無関係な増量に青ざめた本日。
 間食が増えていること、運動量が減っていることを思えば「増量やむなし」ではあるのですが……だって一度にたくさんは食べられなくて、常に小腹が空いていて、腰痛と背痛で動くのは面倒なんだものー。
 いや、そんなことを言って逃げているから増えているんだけど。
 そういうことで、一時休んでいた運動を始めることにしました。ごく軽〜い筋トレ。
 体を動かすってやっぱり気持ちがいいです。
 明日はきっといい朝だと思うな。

6月2日(金)

 あと二週間で仕上げなければならないレポートが、えー、……いくつか(数えたくない)。
 忙しい日々はまだまだ続きそうです。
 3月以来止めてしまっていた時間が一気に流れ出したようで、翻弄されながらも楽しい日々です。

6月1日(木)

 友人たちと呑みにゆきました。
 このところ就職活動や卒業研究で忙しくて構ってくれなかった友人にも会えて、すごく嬉しかったです。
 彼を友人にカテゴライズするのは、実は微妙なんですけれど、他に適した言葉も見つからないので、とりあえず友人。
 時間的にも空間的にも社会的にも互いに重なる部分は少なくて、差異も隔たりも大きくて、だけどなんとなく空気で通じる部分も多くて、それがかなりコアに触れる部分なので、とても近しいものを覚えます。
 長く離れていても、会えばすぐに打ち解ける、みたいな。学生時代にできた友人たちとはまた違う感覚。昔にかえって親しいわけじゃない。あくまでも「今」しか共有していない。
 わたしには仕事の相棒と友人関係を築くことを避ける傾向があります。できればビジネスライクにいきたいの。互いを知りすぎると仕事のバランスが取れないことも多くなるから。
 でも、この子はわたしの引いた境界線をいとも簡単に踏み越えて、なのにただの一瞬さえ不快感をわたしに覚えさせることなく現在の場所にいる。それでいて「仕事」には一切の支障を齎さない。
 なんだろうなあ、と思うわけです。どうしてわたしはそれを許してしまったのか、とか。
 これからまたしばらく会う機会はないのでしょうが、また会ったときには今日のように乾杯したいな。
 ただね、もう一人、同じような感覚の友人がいるんだけど、その子には今回、連絡がつかなくて会えなかったから、ちょっと心配。先月会ったとき、ちょっと落ち込んでいるようだったから。
 元気にしてるのかなぁ。元気にしていてほしいな。
「従弟?」「弟」「年下の叔父」みたいなそういう友人たちなんだけど、考えてみれば社会人になってから初めて「友人」と認識した人たちなんですよね。だからほんとに大事。
 これからもずっと大事にしてゆきたい。
 できれば、彼らもそう思ってくれているといいんだけど、ま、それはわたししだいだ(笑)