適度に不自由な操作性が面白いです。
ストーリーもそこそこいいのですが、登場する女性キャラクターが一昔前のエロゲのようなラインナップで「それはもういいよ」と満腹気分です。軽く紹介すると、思い込みの激しい一途なヒロイン、男ことばの戦う女科学者、情緒不安定なサド女、自閉気味見かけロリ。
これがあの世界の女性の標準的な姿だとすると、そりゃ、ヒロインがダントツで好ましいよなあ、永遠の女性にもなるわけだ、などと思ったしだいでございます。
そういうことで、アクの強い登場人物が多いのでそこが多少胸焼けする感じではありますが、ゲーム自体は面白いですし、展開も悪くないと思います。
ただ、このゲーム、三日で終わると思う。その後やりこむかどうか微妙かな。たぶんやりこむと思うけど。
今日からゴールデンウィークです。
1日は出勤しますが、2日、6日はお休みをもらっちゃいました。
いろいろ計画していることはあったのですが、旦那の体調も良くないですし、早晩わたしも風邪になるでしょうから、このお休みは適度に休息にあてようと思います。
本当はバカンス気分でお気に入りの宿にリゾートに行きたかったんだけど、ま、お家でリゾートっていうのも悪くないかな、と。
どこかで一日か二日、ドライブにでも出かけられるといいかもしれない。
そういうことでお家リゾートの必須アイテムを購入してまいりました。
今回はこれとこれ
感想はまた後日。
わりと病がちな幼少期を過ごしたわたしにとって、病とは他者に迷惑をかけるものである、とする気持ちが強いのは事実。
迷惑そうにされた記憶はないけれど、手間ばかりを増やしてしまって、いつも申し訳なく思っていました。
なので、体調が悪いんだから周囲が気を使ってくれて当然、みたいな思考にはどうにも理解が及ばない。
まあ、病のとき人恋しくなることにはそれほど不思議は覚えないんですけれども、甘えさせろと他者に強要するのは何か違うと思うんですよね。
だいたい体調不良なんてまるっきり自己責任ですし。
や、体が弱いから些細なことでも調子を崩すってのはあると思いますよ。わたしもそうですもの。
一見どこも悪くなさそうな場合、さらに自己管理は難しいんですよね。自重すると「なんの冗談?」なんていわれちゃったりもするし(笑)、それでもなお自制すると興ざめさせちゃったり。
自己を大事にすることと、周りとの協調を重んじることのバランスをどこでとるか、簡単じゃないのはわかります。
でも、どこからどこまでが己の体の許容範囲なのか、どのラインを超えたところで倒れるのかの判別くらいは、大人になったらできなくちゃいけないと思うんだけどなあ。
判断を誤ったら、恥ずかしいと思わなくちゃいけないし。
そのうえで心遣いは感謝して受けとり、その感謝の気持ちを簡単に忘れちゃいけないんじゃないかな。
そういうことすっ飛ばして、体調不良=気遣ってもらって当然、ではあまりに醜いではありませんか。
幸い我が伴侶どのは「構ってちゃん」ではないのでよいのですが、その同僚には
「病を押して出勤している俺さまスゴイ。だから労れ、気遣え、配慮しろ」
みたいな感覚の人もいらっしゃるようで、話を聞いていて唖然。
大きなお世話だろうけど、ご家族は大変だろうな。
旦那が風邪をひいた様子。
正直、労るよりも、まず「うつさんでくれよ」と最初に思います。
我が家に風邪が持ち込まれるとき、入り口はいつも旦那。そして旦那が罹患する場所は常に職場。
なんでも風邪がはやり始めると、ごほごほげほげほやっている人が、毎度、数人はいるらしいです。
しかもマスクなし、みたいな。
いったいどういう感覚なのか、理解しがたいな。
マスクもなしに風邪ひきがうろうろするのは細菌テロにも似てるようにわたしは感じるんだけど。
いい大人なんだから、他の人にうつさないような配慮ってのはないのかい、と。
潔く仕事を休むとか、休む余裕がないならマスクをするなり咳止めを用いるなり、何らかの方策を取る必要があると思うんですけどねぇ……。
そういうことで、旦那にはマスクの着用を義務付けました。
そうそう。他者に病をうつさない姿勢があってこそ、労る気持ちにもなろうというもの。
まずはマスク、そして医者、話はそれからだ。
遊びたい、遊べないような気がする。気がするだけで確かめてはいない。
そういう自分の消極性がちょっといや。
したいことがあるなら自分から働きかけるべきなんだよなあと思いながら、結局何もしないでだらりんこと一日を過ごしてみる。
まあ、だらりと過ごすほうが遊ぶよりラクだと判断した結果だろうから、仕方ないか。
会社の食堂にて、とんかつのキャベツにオニオンスライスが混ぜ込んであって、知らずに食べて驚いた本日。
オニオンスライスとキャベツの千切りのミックスもサラダとしては好きだけど、とんかつキャベツはキャベツオンリーのほうがいいなあ……。ま、好みか、これは。
先ごろ提出した企画書はいいとこどりになりました。わたしの発案もいくつか採用されていて嬉しい気分。
編集の責任者は4月に復帰した後輩。
わたしはレイアウトが致命的に下手ですし、アルバイトだし、そこは当然だと思うんです。
それでも上司は「後輩が編集長、八仙花はディレクター。ディレクターのほうが立場は上なんだよ」みたいに気遣ってくれてしまう。
わたしのご機嫌を窺ってくれる気持ちはすごく嬉しいんだけど、当然のことに臍を曲げたりはしないのでそこはもうちょっと信じて欲しいなあ。
年功序列よりも適材適所のほうが断然いいし。
できないことをやれといわれるほうがよほど困惑するのだし。
でも、やっぱり機嫌を気にしてもらえるのは嬉しいかな。
えー、この春めでたく学生の身分を取得したわたしなんですが、職業欄をどう記述すべきか悩む昨今です。
主婦? アルバイト?(所得税以外の税金および保険その他を収めていないのでおそらくパートではない) それとも学生?
で、まあ、提出先の担当者が信じる身分を記述することにしています。
説明するのも面倒だしねー。
そうなると大方「パート」だったりして、これはホントウっぽいけど微妙にウソになる感じ。
人は己の信ずるところを信ずるとはよく言ったもんだなー、と、書類を処理する人を見て思うこの頃。
そういうことで明日提出の書類も「常勤パート」で参りますよ。
だってアルバイトって項目がないんだもの、この書類。ほぼフルタイムだし……近似項目ってことで……たぶん。
人の気持ちは難しい。何が難しいって規則性がないから。因果さえ定かでない。
人によって違うし、時によって違うし、試してみてやり直しということはできない。
接する瞬間瞬間が真剣勝負みたいなところがある。
人付き合いが苦手と言う人は、この真剣勝負の重圧に耐えかねてしまうんだろうな。
わたしはどんな人とでも、まずは長く付き合ってゆきたいと考えるから、自分を取り繕うことはしない(だって歳月が真実を暴くから)。おかげで真剣勝負も毎度「素」で、重圧は軽いほうだと思う。
それでも長さを保つためにあえて近づきすぎないようにしてしまうところがあるから、一生懸命人と接する人ほど、時として疲れてしまうんだろうな。
連日の「本気」つながり。でも別件。
本気って何ですか、と知人に問われ、本気だと当人が信じる事柄、と応えるわたし。
本気を「本当の気持ち」と解釈するのなら、本気が本気であるかどうかなど当人にしかわからない。
なぜなら「本当」も「気持ち」も、主観的なものでしかないから。
強いて言うなら、その人の主観が他者に共感されたとき立証されるものかもしれない。
とはいえ、共感できないから本気ではない、本気だというのはウソである、というのではあまりに狭量。
共感できることだけがホントウで、共感できないことは全てウソであるのなら、己以外のすべてが虚構の存在になりかねない。
共感は、本気であることの立証にはなりえても(それとても常に正しいとは限らない)、本気でないことの立証にはならない。
ゆえに本気は主観でしかなく、他者が断じることは不可能的に難しい。
そういう諸々を伝えたかったのだけれど、前述の答では彼には伝わらなかった模様。
相手のホンキをどう判じるか、を延々考察してました。
わたしはその考察がそもそも無理だと申し上げたつもりだったんだけど。
そういった類いの話となるとわたしは極端に語数が少なくなるからなあ……。長々と語るのは照れくさいんだもの。
まあ、ぶっちゃけ「相手のホンキを問う前にあなた自身の気持ちはどうなの」ってところなんだけどね。
あなたが本気なら、それでいいんじゃないのってわたしは思うの。
だって相手が本気じゃないってわかったところで、何ができるわけでなし。
本気になってくれるよう地道に働きかるくらいしか手立てがないのなら、本気じゃないことなんて知らなくても大差ないじゃないさ、ねえ。
今現在本気であってくれたって、永遠にそうであるとは限らないんだから。
本気であり続けてくれるよう働きかけることとそう変わらないでしょう。
結局、それだけの力を(そして時間を)費やすだけの本気が彼にあるのか、ってとこなんだけども……。
可愛いやらもどかしいやら(ため息)
相手の気持ちは大事だけど、自分の心が定まっていない状態でそれを測ろうとするのは無意味なんだよ、と伝えられたらよかったかなぁ……。でも、はっきり言ってしまうには、これまた酷な気もしたし。
ま、恋の奴になってる彼は、おそらくその無意味さも含めて楽しんでいるのだろうと思う。
意味のあることだけが正しいのではないから、とことん楽しめばようござんす。仮に辛酸を嘗めることになっても、それもいずれは甘酸っぱい思い出に変わるだろうさ。時間が醸す不思議ってやつよ。これが案外美味なんだよね。
そういうわけで、頑張れ、若人。
本気じゃないなら何も言わなくてもいいのに、と思う本日。
わざわざ「この件に関してはとても本気になれません。どこまでいっても中途半端な気持ちしか持ち合わせはないですよ。だってわたしにとっては遊びだし、遊びに本気になるなんてどうかしているでしょ。まあ、本気の人に言ってもわかんないかもしれないけど」なんて宣言してどうしたいんだろう、と。
わたしもその件に関しては本気じゃないけれど、だからこそ「手慰みです」とは言わない。それが本気の人に相対したときの礼儀なんじゃないかと思う。
何も本気だとウソをつく必要はないし(むろん必要があればウソをつくのもありだとも思うけど)、あえてホントのことを口にしない慎みってもんも大事なんじゃないかと、その人を見ていると痛感させられる。
だって、見苦しい。
本気じゃないならそんなにも必死に戯れであることを主張しなくてもいいし、遊びに聞かれもしない言い訳なんていらないでしょ。野暮っていうの、そういうの。
だいたいね、相手の本気を傷つけるような物言いは、マナーがどうとかじゃなくて、デリカシーの問題。
あんたに欠如してんのは本気じゃなくてデリカシー、そんな風だからそんな歳まで(以下省略)と言ってみたらどんな反応をするだろうかと、胸のそこで渦巻く闇。
でも言わないのが「慎み」ですよ、ええ、あえて己の人間性を貶める必要はありませんとも。
……あー、嫌な人間だなー、わたしも。まあ、いいか。そういうところもわたしだよ、仕方がない。
とりあえず今はね。
お久しぶりです。日記さえ書けない日々が続いています。
やっと落ち着いてきたので、手帳に書き留めておいたメモを日記代わりにアップしてみたいと思います。
注:手帳の内容そのままだとあまりに生々しいので多少編集をしています
メールの返信は週末までお待ちいただきたくお願い申し上げます
母に会いにいってきました。あいかわらずマイペースな人です。
マイペースはかまわないのですが、マイペースにあわせろ、とこちらに要望するところがタマにキズ。
母の言い分としてはこんな感じ。
「わたしは都合をつけるためにかくかくしかじかの努力をしている。それはもう涙ぐましいまでだ。だからどうしても都合のつかないときは、おまえがわたしを手伝いなさい。そうすれば、わたしはわたしの都合を守れる。名案でしょう」
……母上、それじゃわたしの都合はどうなるんでしょう、と、まあ、そんな具合。
わたしにはわたしの都合があり予定もある。だからご自分の都合はご自身で守りなさい、と伝えても、「自身じゃ守りきれないからおまえがやるんでしょう?」と……要領得ないご様子で。
今日はきっぱりと
「あなたの都合を守るために、わたしの都合を犠牲にはできません」
と申し上げたところ、少し考えてから、
「……どうして犠牲になるの?」
「……」
天然もここまでくるとストレートには笑えない。
ほろ苦い思いを抱えての帰宅でした。
ま、「手伝えないこともある」だけは伝わったみたいなので、それでいいか。とりあえずは。
生まれて初めて企画書なるものを提出しました。
デキはともかく、とりあえず提出できたことに万歳。
書いている最中、企画を考えるのは楽しいなあ、などと思ってました。
実行できるかどうかは、まあ、別として。
他の方が書いた企画書も今日はみせてもらったんですけど、ひとつひとつに個性を感じました。
わたしはまず思いつくかぎり完璧な理想を掲げておいて、その中から実行可能なものをチョイスして実現するクチ(つまり掲げた事柄の全てを実行に移す必要はない、と考えるタイプ)なんですけれど、逆に、実現可能な項目のみをあげるタイプの人もいる。
面白いなって思います。
全てを実行する必要はない、と考えるわたしは、「これは無理でしょ」に対して「かもしれんね」
実行可能なことだけを書いた、と考えるその人は、「これは無理でしょ」に対して「そんなはずはない」
それぞれの発想、それぞれの論理、それぞれの展開。
たくさんの思考に触れるのは楽しいです。
でも一番面白かったのは企画書の副題かな。
全員が第一目標として掲げていたのが「社内の健全化」
なるほど、誰の目にも現状は不健全に映っているんだ、みたいな(笑)
そこが一致していれば、誰の発案を中心にしても、大概上手くゆくんじゃないかなって思います。
当事者としての意識が低いのかなって思います。
担当じゃない、を、内外問わず平気で口にする人は。
もちろん越権行為は慎むべきなんだけど、上からの指示に「担当じゃアリマセーン」、お客さまからの問い合わせに「担当じゃアリマセーン」、取引先にも「担当じゃアリマセーン」
自分は担当じゃない、なんてことはわざわざ主張しなくても、お客さまや取引先なら「担当者に確認いたします」「担当者からあらためてご連絡を差し上げます」で良いし、上司は担当じゃないことをわかっていてなお指示をしているんだからできるかぎりその指示を遂行することを考えるほうがいい。どうしてもできないときは、常の仕事と飛び入りの仕事のどちらを優先すべきか上司に尋ねればよいわけで。
それで常の仕事が遅れるなら、それは上司が責任とってくれるもの。そのための確認なのだから。
なんだかいらぬ自己主張がはびこっているな、と思った本日。
久々に朝から動けた日曜日でした。
とはいっても、のんびりペースで、でしたけど。
ま、仕事じゃないんだからできるペースでやりたいことをやるのんがいいかな。
……やりたいことはまだまだあるのに、と思うより、今日できたことに満足するほうが気持ちも穏やかになるしねぇ。
これが仕事は終わらせた量よりもまだ残っている量のほうを気にしなくちゃいけないんだけどね。片付けた量なんかで語ったら、数年後には「無数」になっちゃうもの。
ああ、そうか。
仕事と私事で判断基準を切り替えてゆけばラクなのに、わたしも含めてそこができない人は案外多いんだろうな。
趣味に義務感を持ってしまったり、仕事の半ばで一人満足してしまったりね。
もっとも仕事も死ぬほど嫌なら転職すれば良いことで、そうしないで続けてるってことは「好きで」続けていることとも言えなくはないから……仕事と私事の別がつきにくいのも仕方のないことかもしれないな。
それならそれで適当に折り合いをつけるしかないか。