Diary

4月15日(土)

 吉野まで桜を見に行ってきました。
 吉野のお花見は、吉野に至るまでのドライブでも桜の景色が楽しめるので大好き。
 しかも今年は見事に満開で、とってもきれいでした。
 あいにく小雨の降るお天気だったのですが、前を歩く人の傘が散った桜で花びら模様になっていたり、桜を見るために周りを気遣いながら傘を傾ける人の仕種とか、そういう人の邪魔にならないようにそっと場所を空ける人とか。
 そういうものも美しいな、と思います。
 ただ、あれだけの桜が群生している光景というのは、やっぱりちょっと異様でもありますよね。
 なんとなく箱庭的な感覚を味わいました。
 でもね、仮にあの景色の大半が人為的なものであっても、あれだけの景観を作り出すというのは凄いことだと思うの。それを保つ努力もね。
 どうかこの先も、春には桜色に染まる吉野であってほしいと思います。

4月14日(金)

 企画書の提出を求められて、うはぁーっ。
 企画書の書き方から突貫勉強しているわたしです。
 だって財務じゃ企画書なんて作らないしね……三ヶ月が過ぎても日々精進三昧です。
 もちろん今までにない創造的な仕事に携わる楽しさも味わわせてもらってはいるのですが、ルーチンに慣れた身には刺激が強いというか、うっかりするととんだボケをやらかしてしまうので、緊張が耐えません。
 その緊張といったらね、苦情の電話の応対が一番楽しいくらい。
 向き不向きを語れるほどには今の仕事のことを知らないのですけれど、不向きでないことを祈る日々です。
 で、企画書なんですけど、企画書って何? なわたしが火曜日までに提出できるのか。
 スリリング。

4月13日(木)

 今日は会社の友人と食事に行きました。いろんな話が聞けて楽しかったです。
 恋に恋する、というのではないけれど、「彼がほしい」で彼にしたらすかった×2回、とか。
 あるある。急に入用になって買い物に行く。ちょっとイメージじゃないんだけど時間もないことだからと購入。結局その急な用事一回こっきりしか使わない、なんて感じとちょっと似てますよねぇ。
 焦ってすかを掴むなんてのはどんな場面でもあることですが、握ったものがすかだったことに気づいたとき、いかにきれいに手放せるかが明暗の分かれ目。
 でも手の中にあるものをすかだとは思いたくない気持ちもわかるので、心ゆくまで転がして、それから手放せばいいのではないかしら、と思います。
 そういう使わないあれこれがわたしのクロゼットを占拠しつつあるので、今度の休みに気持ちよく手放してしまおうかと検討中。

4月12日(水)

 壁紙を変えてみました。昨年春の使いまわしですが、いつまでも雪模様よりは良いかと思いましたので。
 ランダムストライプにも満足してきたので、そろそろ大きく改装してみたいとは思っているのですが、実現がいつごろになるのかは不明です。
 久々に(前回は多分半年は前だと思う)小説のプロットをざっと書き出しながら、「全然書けない、纏まらない、進まないけど、でも楽しい」気分を味わいました。
 やっぱりいいね。お話を書くのは。
 今日書いていたのは風紋とEyesなんですけど、叶うなら来週末には更新したいところです。
 鬼喰はまだしばらくは掌編の連続になりそうですが……拍手御礼も入れ替えなくちゃ。
 やりたいことは目白押し。しばらくは楽しい日々が続きそうです。

4月11日(火)

 今日は仕事を褒められまして、万々歳。
 次回発行のメルマガ関連の仕事なんだけど、やっと書きなれてきたのかな。いい出来だと言ってもらえてすごく幸せでした。
 八仙花の書く文はいいね、と言われて、久々に物書き冥利を味わいました。
 好きなことをほめてもらえるのは、掛け値なしにうれしいです。
 で、そろそろ小説も書きたくなってきたので、毎週三日のお休みの確保に頑張りたいと思います。
 しかし休暇を申請するためには、そして快い承諾を頂くためには、仕事をそつなくこなしてゆかなくてはならないわけで、いよいよ気持ちを引き締めてゆかなければ。

4月10日(月)

 誕生日でした。
 今日は少し遅くなるから、と言っていた旦那が、会社帰りにわざわざ足を伸ばしてわたしのお気に入りの洋菓子屋さんでケーキを買ってきてくれて万歳。
 クランベリーとラズベリーとブルーベリーとブラックベリーとストロベリーのチーズタルト(名称知らず)が好きだ、と話したのはひと月くらいまえのこと。
 あ、聞いてないようで聞いてくれてるんだ、と思って、なにやらほんわかとした気持ちになってしまいました。ありがたやー。
 ……旦那の誕生日はなにやら適当に流してしまった記憶があるので、微妙に申し訳なくもあったんですが。そういえば義弟の誕生日は昨日だった。忘れてた。今から贈ろう。
 祝ってくれる人がいるということは、本当にありがたいことです。
 友人からもいくつかお祝いのメールが届きまして、今日は幸せな一日だったと思います。
 うれしくて、ありがたくて、あたたかい。
 こういう気持ちをいつも忘れないでいたいな。
 そうそう。今日は大学への三年次編入の許可も下りて、万々歳でした。
 八仙花、●年ぶりに大学生です。はたして講義についてゆけるのか。微妙に不安も覚えます。

4月9日(日)

 そういえば4月からは日記をブログにしようと考えていたんだっけなー、などと思い出したのですが、ログの保存が手間だということに気づき、見送ってしまいました。
 そのうちまた手間でもいいから変えようか、と思ったときに考えることにします。
 休みの日には外出して、なんて言っていたのに、今日は一日寝付いてしまっていて、目覚めてびっくり、午後三時。
 自覚している以上に、疲れているっぽいですよ。
 まあ、でもよい休養にはなったと思うので、これはこれでOKと。
 最近運が向かないのは、自分のよれよれ具合が好い運気を遠ざけているのだと思うので。
 これで少しでもつきが回ってくるのなら、半日以上寝たおした甲斐もあるってもんです。
 甲斐があるか否かは、ま、明日以降の過ごし方次第ですけども。
 しゃきっと行くぞ。

4月8日(土)

 社員とアルバイトでは扱いが違って当たり前。
 特に長期療養から復帰した部下を上司が気にかけるのは当然で、彼女にかける言葉の中には、わたしとの比較もでてきて普通なんじゃないかな。
 たとえば
「八仙花はアルバイトだから、頼りにしてるのは君なんだよ」
 とか
「現状ではアルバイトの八仙花にやってもらっている仕事も、将来的には君にやってもらいたい」
 とか、そんな感じで。
 考えなくてもわかることだけれど、わたしはそう長くは務められないだろうし(長くても2,3年かな)、その後はどうしたって彼女がやってゆかなくてはならない。
 会社にとってわたしは、彼女が完全復帰を果たすまでの中継ぎで、彼女が復帰を果たした後には彼女の手足となる新しい社員を迎えたいと考える。そしてその社員は彼女より年下で、経験のないまっさらな新人であることをより望ましく思う。彼女が遠慮しなくてもいいようにね。
 それは自然なことで(わたしが上司でもそのように考えるもの)、決してわたしを軽んじているのでも見くびっているのでもありません。
 むしろわたしは、わたしのことを社員の中継ぎとして見てくれている上司に感謝しているし、それに誇りをもってもいいかなって思っているんだけど。
 隣のパートさんはそういった発言があるごとに、
「嫌な言い方をするのね」
「パートやアルバイトをなんだと思っているのかしら」
「あなたもこれから辛いわね」
 なんて愚痴るものだから!
 もう、寂しいなんて言わないから、一日も早く辞めてほしくなっちゃった……。
 ほんと、ウマの合わない人っているもんだぁ。

4月7日(金)

 せっかく逃れた販促物の制作がまた帰ってきそうな気配。
 や、まあ、下手なだけで嫌いではないので、上手になるように頑張るだけなんだけど。
 ……でも本当に下手なので上達するのは簡単じゃないかもしれない。つまり相当の努力が必要とされるってことで、プレッシャーは大きいな。
 どの程度下手かというと、たとえば商品解説を作るでしょう?
 文章と構成は採用されるんだけど、装飾はリテイク。リテイクされるならまだマシで、時には業者さんにお願いすることにも。
 自分でも「どうよ」と思う出来なので、それについての不満は覚えないんだけど(かえってほっとする感じ)、申し訳なさで胸いっぱい、みたいな。
 考えてみるとこのサイトもデザイン的には素っ気無いし、といって装飾を施す能はナシ。
 趣味なら「不得手だから」で済むんだけど、仕事だとそうも言ってられなくて(ため息)
 まあ、逃げられるものじゃなさそうなので、泣き言に浸っていてもどうにもならん。
 次の休みからはできるだけ外出して「販促物とはなんぞや」の勉強をしたいと思います。
 好いと思ったポスターやPOP、広告の何を好ましく感じたのかを、まずは書き出してみるかな。

4月6日(木)

 後輩が仕事に復帰して、でもパートさんが一人辞めるので、プラス0.75と言う感じ。
 退職するパートさんとわたしは「うまくいっていた」とはとても言えないんだけども(喧嘩をしたことはないんだけど、仕事に対する温度差がありすぎて理解しあえなかった)、いなくなってしまうとなると少し寂しいな。
 とはいえ、こんな時期に退職するくらいなら、もっと早くに決めてくれれば会社も欠員募集で新入社員を入れられただろうになあ、と思うと、ますます「仕事」というものへの考え方の違いを感じてしまいます。
 だって、古株(わたし)をアルバイトで雇うよりも、新卒を社員として雇うほうが俄然使いやすいだろうし、遠慮もなくていいもの。仕事もガンガン任せてゆけるだろうし。
 わたしはアルバイトだから(わたしの希望は別として)会社にとってはいつ辞めちゃうかわからない存在でしょう。そういう存在に大事な仕事は任せられないもの。
 自己都合を一番大事にしたいというのはわかるし、都合の範囲で働きたいというのもわかるんだけど、自己都合だけを優先して、「そのためには周囲への気配りが多少欠けても仕方がない」と考えてしまうあたりが、どうにもわからないや。
 自分に都合があるように、相手(上司、同僚、会社)にも都合があることを忘れてしまえるのは何故なんだろう。
 自分が自分の都合を大事にしたいと思うように、相手も相手の都合を大事にしたいと思ってる。
 自他の都合の折り合いを上手につけていってこそ、一人前だと思うんだけどな。
 自己主張するだけなら赤子にだってできます。
 本当に大事なのは、相互に主張を重んじることなんじゃないのかなぁ……。
 ……まあ、うん。とにかく見ない人だし、聞かない人だから、周りのことに気づかなくても仕方ないのかなぁ。そういう在りかたも、否定する権利はわたしにはないものね。あるのは拒絶する権利だけど、発動せずに済んだことを幸運と思うべきなんだろうな。

4月5日(水)

 酒を飲むにも杯が進む相手とそうでない相手があるんですけれど、杯が進む相手には会話が上手だという共通点があります。会話がうまいから長い時間を共有できる、長い時間を過ごせば杯も進む、杯が進むと気持ちも口もなお滑らかになる、という感じかな。
 かつお互いお酒が好きという場合は、ペースも若干早めになるんだけど。
 考えてみると気の合った相手と会話が弾んでいれば、酒も肴も少量で足りるわけで。
 決して飲むこと自体は目的ではないんだなあ、と思うこのごろです。
 もちろん飲んで食って騒いで万歳、というのんも好きですがね。
 でもやっぱり一番好きなのは、酒より肴よりよい友人かな。

4月4日(火)

 会社の友人たちと花見に行きました。
 夜桜で花見の宴というのんは久々だったので楽しかったです。
 途中、小雨がぱらついたりもしたのですが、のんびりと呑んで話して、良い時間を過ごせたように思います。
 ただ、解散後迎えを待っているときに、5,6組の小僧っ子どもに立て続けにナンパされたと言うか絡まれたと言うか――それがまた一組を除いて他はわたし的想定外だったりして――後味がさわやかでなくて残念でした。
 こう言ってしまってはなんですが、酒の勢いを借りなければ声をかけられないようでは、
「まだまだ青いな」
 と思いますし、かける言葉も月並みというか型どおりというか、テンプレートでもあるのかと。
 まあ、そこが若いのんの可愛らしさでもありますしね……初々しいのは悪いことじゃないですし。でも、想定外じゃねぇ……(結局それか)

4月3日(月)

 母はわたしを「自分の一部」のように思っているらしくて困ります。
 わたしを自分の一部のように思っているから、わたしの物も、わたしのお金も、わたしの生活も、わたしの時間も、すべて「自分の一部」として認識してしまっている……そういう感じ。
 もう一人の自分、みたいな認識なのかな。
 わたしのことをもう一人の自分だと思っているから、わたしが母の思うように行動しなかったり、わたしのものを母の思うように使えなかったりするとひどくショックを受けて、塞ぎこんでしまうんですね。ときには泣き叫んだり喚いたり、ということもあるんですけど。
 さらには、自分の一部であるはずのわたしが、母の意に沿わないことをするはずがない、してよいはずがない、とも感じているみたい。わたしが聞き分けのよい子供であったことはないはずだけど、もうすでにそういった事実さえ好ましい幻に塗り替えてしまっているっぽい。
 でも、母がどれほど「自分の一部」のようにわたしのことを思いたくとも、現実にはわたしは母の一部ではありえないわけです。だから母の理想は決して実現しない。するはずがない。それでも母は夢を見続けたいと願う。
 だから母は「実現しない理想と現実の間」で、このところめっきり疲弊してしまっています。それはもう、本当にかわいそうなくらい。
 ただ、どれほど母がその件で疲弊していても、わたしにはどうすることもできません。
 できないので冒頭の「困る」になるんですけども。
 母の理想と母の現実がそぐわないのは、母の理想があまりにも現実を無視したものであるからなのですが、母の中ではどこまでいっても
「娘(わたしのこと)が『冷たい、情がない、育て甲斐がない、常識がないetc.』から」
 になってしまうみたいです。
 まるで自分自身のように愛しているのに、どうして応えてくれないの、というわけです。
 母にとってこの苦境を脱することのできる唯一の手段は、「娘がわたしの一部であることを受け入れてくれること」なのでしょうねえ。
 本当の「唯一の手段」は現実をみることなんだけどな。
 あなたはわたしではない、わたしはあなたではない。
 相手を自己と同一視するということは、相手の「個」を認めていないということ。
 大げさに言ってしまえばその相手の「尊厳を踏みにじっている」ということでもある。
 それを愛というのは間違っていませんか、と。
 上手く伝えられたら、母の苦しみも多少は軽減できるのでしょうけれど、……今のわたしにはまだ母に伝わる言葉としてのそれらが掴めない。困ったなぁ。

4月2日(日)

 しばらく運動をサボっていたら覿面太りました。
 気づいた本日、すでに2kgプラス。2kg増えると形が変わる。風呂場で気づいてチョーしょっく。
 間食も増えているので気をつけねば。
 2kg太ることそのものに問題はないと思うけど、わたしが太るときは明らかに「怠惰と過食」が原因だから、自律のバロメータとしてみた場合には、放置不可の大問題だと思う。
 正せ、己のありようを。

4月1日(土)

 長期療養を終えて、後輩が職場に復帰しました。
 元気になってよかった。
 これでわたしもやっとアルバイトらしいアルバイトになれるのだとほっとしています。
 決して仕事は嫌いではないのです。むしろ好き。だけど好きなだけにのめりこんでしまい、他の事ができなくなってしまう。もちろん、趣味か仕事かと問われれば、迷うことなく「趣味」と答えるわたしですが、仕事に全力で挑んだ後に、趣味に向けられる気力・体力が残ってない(苦笑)
 結局、配分しだいなんですけどね。わたしはそれがあまり上手くないだけで。
 まあ、そういうことなので、彼女の復帰は仕事上でもうれしいです。
 もっとも「今までにない新しい仕事」がすでに入ってきているので、実際にどれくらい軽減されるのかは不明なんですけどね。
 わたしとしてはもう「一生懸命」とか「精一杯」とか「必至に」というような働き方は望んでいないので――というか、いままでだってずっとそうだったんだけど、社員である以上、一途にならざるを得ないところに恵まれまして……いまでも少なからずそんな感じではありますがねぇ――適度に頑張ってゆけたらいいなと思います。