明日から復帰する後輩を迎えるために、机の配置換えを行ないました。
八仙花さんはどこがいい? と尋ねられて、「机の位置で仕事ができなくなるわけじゃないしなあ」と思いつつも「上役殿のお席の近くが安心です」とウソにならない気遣いをしてみました。
思いのほか喜んでくれたのが、わたしとしてもうれしかったです。
それはさておき、資料のぎっちり詰まった棚や机をそのまま動かすのんは、容易ではありませんでした。
特に事務服を着ているとね。タイトスカートでは踏ん張りがきかなくて。
引き出しくらい抜けよ、とも思ったんですけど、まあ、動かせるんだからいいかな、と。 ← 適当
今はちょっと広背筋とハムストリングが痛いです。
で、昨日の僕ちゃんがなんと同い年であることを知り、仰天しました。
おまえさん、三十路もとうに過ぎてそれで大丈夫なのか、と。
なにやら心配になってきましたよ。
月末は忙しいからわたしの手伝いを期待しないでくれ、と他部署の僕ちゃんに思う本日。
作業内容は嫌いじゃないんだけども、実は僕ちゃんが好きじゃない。
新しい仕事ひとつごとに
「え、それも僕がやるんですか」
とのたまう根性がまず好きじゃない。
「人が足りないんで」
を言い訳に、手伝いを正当化する性根も好きじゃない。
人が足りないなら、人を増やすように会社に働きかけるべきだろうに、と。
つまり、仕事量に対して人手が足りていないから従業員は連日残業続きになっていること、かつ、人を増やしても利益は十分に保たれることを会社に示し、人手を増やしてもらうことが必要なのだよ、僕ちゃんや。
他に仕事を抱える人間の手伝いを当たり前のように期待するのは大きな思い違いだ。
そんなことを続ければ、「ほんのちょっとの手伝いで足りる程度のことなら、人をふやす必要はない」と会社は判断するし、そうなれば常に手伝いを頼み続けなければならなくなる。
手伝いを頼めば解決するあんたと違って、頼まれ続けるわたしの負担は永続的に続くわけだよ、こんチクショウめ。
あんたの残業が減って、わたしの残業が増えるのでは、会社にとっても意味がない。むしろマイナスにもなりかねん。
だいたいほんのちょっとの手伝いで解決することなら、今よりほんのちょっと頑張って定時内に終わらせれば済む話じゃないか。
まずは仕事の段取りを考え直せ、そして部署内で片付ける努力をしろ。
……言ってみたんだけど(口調はソフトにね)、
「ん〜、なんですけどぉ、できないんですよぉ」
で片付けやがった。
できないならできないでも構わないけど、できないツケも自分で支払いなさいよ……。
カラーを変えて、レイヤーを多めに入れて、軽く明るく春らしく、髪型を変えてみました。
とりあえず自己満足。
それから買い物に行って、役所に行って、郵便局に行って、銀行にも行って、水曜定休は悪くないなあと思いました。
開いてるし、空いてるしね。
土日しか休めなかったころは、金融、役所関係は大変だったもの。
……もちろん、土曜日も休めるなら休みたいんだけど。正社員なみに働くなら社員になったほうがいいし、社員になる気にはならないからアルバイトでいるんだし。
でも4月になるまでは難しいかな。
ハングリー精神をもて、とはよく言われることなのですが、あまりにもハングリーな人を見ると「がっついて喰うと腹を壊すよ」と思ったりもする。
何事においても言えることだけど、要不要を見誤ると、せっかくの気合が空回りする。
不要なものを摂取すればそれを消化するのに余分なエネルギーを浪費するし、消化しても贅肉になるだけ。
摂取してはいけないものを食べると、体を壊すし、時には死に至る。
そこらへんの見極めができていればいいんだけどね。
……手当たり次第に喰たいついては腹を壊してばかりいる某知人を見ていると、その苦行の果てになにが得たいのか、非常に気になります。
清濁あわせて丸呑みの懐の深さには感動もするんだけど、美味しいとこだけ楽しむ要領のよさも、もう少しあってもいいんじゃないのか、と。っていうか、丸呑みしたあと七転八倒しているその人を見るのが怖いんだよ、わたしは。正直なところ。
……もしかしてあの人は、あの七転八倒こそを最大の旨みとして覚えているのかもしれないなあ。
蓼食う虫も好きずきってやつか。人間って奥深いや。
桜がちらほらと咲いています。
これから4月の上旬までがこのあたりでは花の見ごろなのですが、この時期はいつも雨が多いので花見日よりは案外少ないです。
花見の予定はいくつかあるんだけど、後半はいつものように山まで足を伸ばすことになるかもしれないな。
でも、花を見ながらの通勤なので、「見る」については毎年満足できるのですけれどね。花見の醍醐味ってそれだけじゃないから(笑)
キャリアを目指す友人の話を聞いていると、わたしも頑張らなくちゃいけないなって思う。
その人はアルバイトから始まって、いまや支店長代行を務めるほどになっている。今は支店長を目指して頑張っているところ。
わたしは仕事で身を立てることには積極的ではないんだけど、「やりたいこと」「なりたいもの」というところで考えてみた場合、絶対的に熱意が足りないと思った。
彼女ももちろん順風満帆ではなくて、話の中にはいくつも苦難があったことが窺える。それでも諦めないで頑張っているんだよね。
女性がトップに立つことにはまだまだ否定的な人もいるようで、たとえば同じ女性から「仕事仕事ってばっかみたい。他に楽しみがないんじゃないの?」なんて目を向けられたり、できない男からは「女は女らしく、でしゃばらす、男に従っていればいい」なんてことを言われたりもしたみたい。
それでいて「女はいいよな、上に気に入られれば好き放題できて」とか。
女性の好意的でない視線はこれといって障害にはならないので気にしないように勧め、男性の嫌味については
「できない男はみんなそろって同じことを言うもんだね」
と応えたら、ちょっと困った顔をしながら「競争相手だと思われてるから仕方ないよ。あんたはあいかわらず男には厳しいねぇ」と笑っていた(連日似た様なことを言われてちょっと反省もした)。
できない男、とわたしがあえて限定したのは、できる男は女の成長を嫌がらないからなんだよね。
むしろ成長を歓迎してくれるし、その度合いによっては引き立ててもくれる。
一人くらい競争相手が増えても揺るがされないだけの土台をもっているし、競う相手も女性なら日々華があっていい、くらいの鷹揚さがあるんだと思う。わたしはできる男になったことがないから本当のところはわからんけども、少なくとも嫌味を言うほど窮々とはしていない。
彼女はキャリアを目指しているけれど、決して男勝りな性格ではないし、実のところわたしよりずっと優しくて華奢で可愛いくて女性らしい。料理も上手いし、部屋はいつでもきれいだし、シャツには必ずアイロンがかかっていて、声の調子もいつも穏やか。選ぶ言葉がもうやさしい。
そういう彼女の女らしさを見ようともせずに、ただ仕事に対して上昇志向がある一転だけを見て、「女らしくしてろ」とはよく言ったもんだと思う。その馬鹿男は。
まったくできない男に限って……いや、そうじゃなくて、友人もみなそれぞれに頑張っているんだから、わたしも頑張らなくちゃ、という話(苦笑)
人のことを言う前に、まずは我が身を省みなくちゃね。
母と女は性別が違う、と感じた日。
どちらが良い、悪い、ということではなくて、母と女の両立は難しいんだろうなと、友人を見ていて漠然と感じた、ということなんですけど……。
それも、具体的に「こういうところが違う」と例をあげられる類の違いではなくて、言うなれば、その発想や言動に
「あ、『お母さん』だ」
と感じ、かつそれらが母でない女にはおそらく思い至らないものであったりすると、
「違う」
と感じるという非常にあやふやなもの。
決して両立できないものではないのだろうけれど、母としての存在が確立してゆくにしたがって、女っぽさや女らしさは影をひそめてゆく印象を受けました。
考えてみれば母性は本能で、本能が「母」を選択している以上、女としての本能は抑えられるだろうし、抑えられた本能の影響は受けにくいのは当たり前なんだけど。
それだけお母さんというのは大変なんだろうなって思う。
ちょっと不快に感じたのは、それだけ頑張ってお母さんをしている友人を指して、その旦那(これも友人ではあるのだけれど)が、
「あいつ、年々おかん臭くなってさー。女としては焼きがまわったっつーの?」
みたいなことを言ったところかな。
「あんたの父性が足りてないから、彼女が母性でカバーしてるんでしょ。女らしくあってほしいなら、あんたがもうちょっと気を使ってやんな」
「……おまえは相変わらずの姐やだなあ。母にはならんの?」
要らぬ世話じゃ!
同僚とまったり呑みに行きました。
まったりと話しながら4時間半。
醒めて思うのは、随分折入ったことまで話しちゃったなあ、というところ。
お酒が入るといつもより多少口が滑らかになっちゃうってのもあるんですけど、たぶん同僚は聞き上手なんだと思います。
ただ、意外と苦労してるんですね、という相槌には困りましたが。
苦労したという実感がないというのがまず一つ。当たり前のことしかやれてないし。
ついで、そんなに毎日有頂天ぽくみえてるのかな、というのが一つ。大概ご機嫌だけどね。
最後に、苦しい顔を人には見せないですんでいるということかな、というのが一つ。まあ、これは見せるものでもないからなぁ。
三つ混ざるとどんな反応をしたものやら。
とりあえず、「人並みには、たぶん」と答えておきました。
大変だったなあ、という記憶はあっても「苦労した」という感慨をわたしは覚えないので……あるいはそれが「意外に」という感想になるのかもしれないな。
っていうか、「苦労した」ってどんな感覚なんだろうな。
悪意があるのか、ないのか、判断つきかねるんですが。
隣席のおばさまはここ十数日風邪を引きっぱなしです。自己管理が甘い、とかそういうことを言うつもりはありません。若いのんならともかく、ご年配なのだからしかたがない。身体はいうことを聞かなくなるし、若いころにくらべれば、体調も崩しやすくなる。そんなのは当たり前で、当たり前のことを責めるのは、無体というもの。
なのでそれはどうでもいいんですワ。
問題はそのおばさまが、体調不良の弁解に、のたまうその言葉。
「八仙花さんはいつも元気ね、風邪なんかひいたことないでしょ」
……
てめえの体調不良の言訳に無関係なわたしを持ち出すなよ、とまず一点。
次に暗にわたしが馬鹿だと言いたいのか、で二点。
わたしのこれまでの人生の何を知っているつもりで口を利いているのか、で三点。
単に「自分の見たものしか認められない、自分に見えるものだけが全て」という狭窄的思考の持ち主なんだろうけれど、不快感はぬぐえませんでした。
開いてしまった口をふさぐために
「ああ、そうですね」
とだけ答えたんですけれど、今度は嬉しそうに「わたしはデリケートで……」と病気自慢(万年風邪を病気のうちに含めれば、だけど)が始まりましてね。
聞いていてどっと疲れました。
こっちが病気になりそう(笑)
母上をカウンセリングしていると、人がいかに「我慢」の幻想に囚われやすいかをひしひしと感じます。我慢や忍耐が美徳とされる文化土壌では仕方のないことかもしれませんが。
今日は「我慢することは現状維持を望むことで、現状打破にはならない、つまり我慢の果てに改善はありえない」と、言葉の中に織り込んで伝えることに努力してみました。
いつもは「わたしはこんなに我慢しているのにまだこれ以上頑張れというのか」みたいな明後日方向への反論が返ってくるのだけれど――我慢は努力のうちに入らないことが根本的にわかってなかったんですワ――今日はしみじみと「そうねぇ、我慢するだけじゃ変わらないわねぇ」との相槌があって驚きました。
これはイケる! 今日ならきっと理解してもらえる!
そう信じて「我慢することは尊いことですが、我慢で守れるものは現状だけです。だから現状に不満があって改善したいと望むときには、我慢だけでは叶わない。我慢の先へ踏み出さなくちゃいけない。『わたしが何も言わずに我慢しているうちに変わってくれればよいのに』と望むのは、自ら働きかけを一切することなく、周囲に変わることを強いているのですから、時として怠惰で傲慢で横柄な振舞いなんですよ」と、一歩踏み込んで言ってみました。対する答えは
「そうね、わたしはそういった意味での努力はしてこなかったわ」
ブラボー!! なんて素晴らしい! 苦節十年、やっと通じた!! 神さま仏さま、今日をありがとう! さすがお彼岸!! 悟りの岸が近いだけはある(違う)!
ほんとに諦めたらダメなんだと思う。誰かに思いを伝えるときに、投げ出したらダメだと思う。で、繰り返しと継続ってのは確かに「力」と思う。だって十年目にやっと通じたんだもの。昨日で諦めていたら、今日は来なかった。
ただ、母は「でも我慢することと己を大事にすることの加減がわからないのよ」とも言っていたのですが……根がまじめな人だけに、何かまた難しく考えすぎているような気がする。
それは全ての基準を自分の上におくからなんじゃないのかな。
・己が我慢すること←→己を大事にすること
じゃなくて、
・他を大事にすること←→己を大事にすること
・己が我慢すること←→他に我慢させていること
って二つに分けて考えればいいのにな。
二つのことをいっぺんに、一つの秤にかけるから、わからなくなるんだと思うんだよね。
二次方程式を解くには二つの条件式が必要になるんですよー、みたいな。
これもまた上手く伝えられるといいけれど、よい言葉が見つかるまで、ま、焦らず気長にやってゆこうと思います。
方程式にたとえたら、人の心は計算では測れない!とか、また明後日向いちゃうから(苦笑)
いつも元気な人が急に気弱になることがあって、そういうときはすごく心配になります。
いつも元気であることがそもそも異常なんだけど(無理をしているという意味でね)、その人がいつも元気に振舞ってくれていることに、わたしも無意識に甘えていたんだろうな、と思います。
たぶんそのせいでわたしには相談をしてくれなくて、詳細がわからないからなおさら案じてしまう。いや、それはわたしの日頃の行いのせいなんだけど。
ほんと、信頼を得るって難しい。
わたしには関与できないから、問題が解決されて早く元気になってくれることを祈るしかないけれど、元気になってほしいと思うのはもしかして「無理をしててくれ」ってことじゃなかろうか、などと思うと、祈ることさえおこがましい感じ?
腹割って相談してくれよ、と言えたらもう少しは変わるんだろうけど、役者不足がわかるだけに言いがたいしなあ……なにより、お呼びじゃないと言われることがまだ怖い。
結局わたしにも相手を信頼しきれていない部分があるんだと思う。
……そうか、祈るならこっちか。
この不信、少しずつでも埋めてゆけたらうれしいです(祈)
最近日曜日になると半日くらい寝たおれているような気がします。
こう、休日の使い方が今ひとつうまくない感じ。
ぐうたらするのも大事なことだし、のんびり過ごすのは好きなんだけど、のんびりしすぎてのんびり以外の好きなことができてない現状。
まあ、それでもひとつ「のんびりする」という好きなことをやっているんだからいいのだけれど。
早いところ段取りをつけることを思い出さないと(そして実行しないと)苦しいことになりそうだ。
自分のことにしか興味がないからじゃないの、と言われ、つい納得してしまいました。
他人事(色恋しかり、出世しかり)に興味を持たないのはわたしにとって至極普通のことなのですが、裏を返せばそれは「自分のことにしか興味がない」からなのでは、ということなんですね。
興味がないから気にならない、腹も立たない、嫉妬もしない、不快も覚えなければ、不満も感じない。結果として寛容に振舞える。
だとすればその「寛容」は「無関心」の表れで、決して温かくて優しいものじゃないよね、という話。
なるほど。
だから「ああ、きっとそうだねえ」と答えてしまって、「納得してないで反省しなさいよ」なんて言われたんですけれども……はてさて何を反省してよいのやら。
わたしの気持ちや心は、わたしが大切だと思うものに向けられて然るべきではないのかしらん。
大切だと思うものが増えてゆくのは楽しいけれど、それは自然の成り行きで、わたしの意志でコントロールできるものでもないですし。
ただ、わたしの「無関心」を「やさしさ」だと信じてしまって、傷つく人もいたのかもしれないと思うと、それはちょっと申し訳ないかな……。
せめて大事に思う人にだけはいつもやさしくありたいな。
同僚複数と呑みに行きました。
同僚から例のあの子はお返しがなかったことは気にしていないようだった、というようなことを聞かされました。
もっとも気にしていても「気にしている、傷ついている」とは人には言えないと思うのですけれどね。
ただ、まあ、わたしとしてもそれを信じたい気持ちです。特に親しくもない間柄ではありますが、友人が原因で傷ついているとなると、それも胸の痛むことでもありますからねぇ。
今日は他にも人の恋路について耳にすることが多く、「へぇー」となったのでした。
何について主に「へぇー」となったかというと、案外みんな感情移入が激しいこと。
流れとしては、
1.彼と彼女は付き合っているらしい(状況証拠より)
2.彼と彼女の付き合いの内容を濃密に詳細に想像する
3.たまらなく居心地が悪くなる = 二人の関係にガッカリする
4.否定的な感情が湧きいでて怒涛のアンチ・トーク開始
みたいな感じかな。
わたしとしては2.が良くないと思うんですけどね(苦笑)
それから3.でその想像にがっつりのめりこんで否定的感情を移入するというところかなぁ……。
他人のお付合いの内容を濃密に詳細に想像するくらいなら、自分のお付合いの内容を入念に濃密に詳細に省みて策を練るほうが、たぶんいいと思うんだけども。
興味深いのは否定的発言の多くが「社会通念」とか「良識」、場合によっては「道徳」や「モラル」というものに拠るところ。その理論は、あくまでも自分の感情ではなく、「社会が許さない」「常識的には容認しがたいものである」と展開されるわけです。
ただし、許さない社会というものがどんな社会であるのか、とか、容認しない常識とは何を母集団にしたときに共通の認識とされる常識なのか、とか、そういうことには当然一切触れない。
「許さない社会」と「容認しない常識」の存在を全肯定したうえでしか語らない。
その許さない、容認しない理由もよくよく聞いていると、辿りつくところは
・彼女の根拠のない自信が不快だから
・彼の裏づけのない自信が理解できないから
だったりして、思わず「ううむ」と唸ってしまう。
根拠があって裏付けのある自信なら、今度は「鼻高々なのが気に入らない」「嵩にかかった態度が面白くない」になるだけなんじゃなかろうかー。
もちょっとおおらかに周りを見てもよいのでは、と思います。
根拠があって裏づけのある自信なんて、世の中多くないですから。
「自信」に限らんですけども、ね。
ねえ、彼は例のあの子にホワイトデーのお返しはあげたの?
という質問を方々から浴びた本日。
なぜわたしに聞く、なぜわたしが知っていると思う、というような質問返しももはや白々しく、精一杯、
「わしは預かっとうせんにぃ」(マジでもろ方言がでましたよ。動揺していたのでしょうかねぇ)
……。
わたしが預かっていないなら「なかった」=「脈なし」と解釈するのか、
言付けていないなら「直接返した」=「脈あり」と解釈するのか、
そこはまあ、聞く人の個性次第ということで。
それにしても、そういう話題、好きな人多いなあ。
ときどき思うんだけど、他人の恋路にまで耳そばだてて目はさらに、そしてさえずる余裕があるな、と。
わたしなんか身の回りの交友関係を恙無く捌くだけでぶっちゃけ手一杯なので、人の恋路まで気を回してられないよ。
考えてみるとわたしが気にする「人の恋路」は「友人の恋路」だけだ。
だって友人の幸不幸はわたしの幸不幸にも直結するから。だからそこには心も砕くんだけど。
冷たく聞こえるかもしれないけど、自分の投資していない市場の無関連株の動向なんて、普通気にしないでしょ(もちろん情報が入ってくれば気に留めておくけど)。
そういうことでないのかなって思う。
テラさん(夢乃欠片 現乃一片)から「口説きバトン」なるものをいただきました。ありがとうございます。
皆さまのバトンを読んでみると正統派あまあまらぶらぶ路線が多かったので、あえてここは一つ成就しにくい異端の恋愛における口説き文句を中心に展開することにしてみました。
……正統派あまあまらぶらぶ路線は、ぶっちゃけわたしには無理でした、ということで。
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【口説きバトン】
【注意】
これは常人には精神ダメージがかなり大きいバトンです。
見る時は5回ほど深呼吸をし、覚悟を決めてから見てください。
以下のキーワードを絡める、もしくは連想させる口説き台詞を自分で考え、悶えながら回答してください。
答える生け贄もとい勇気ある人々にこの言葉を送ります【恥を捨てろ、考えるな】
*リアルで言ったら変人扱いされるようなキザ台詞推奨*
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01)キーワード1 『雪』
弥生の雪ですって
こんなにも出遅れて、笑ってしまうわ
積もることさえないのに未練がましいったらありゃしない
いよいよ春が訪れて、花でも咲いたなら
思い返されることさえなく忘れられてゆく一方なのに
……それでもこのひととき、あなたの上に降る雪を
わたしはきっと忘れないわね
02)キーワード2 『月』
いいえ
満ち欠けしているように見えても
月の形は本当は変わらないでしょう
同じことです
わたしが変わったように見えるなら
それはあなたの影がわたしに落ちているから
……それで今
あなたの目にわたしはどう映っているのでしょう
欠けているなら、うめてくださいますか
03)キーワード3 『花』
思ふさま 染めななむとや 夢見草
さめてぞのちも 望まるるまで
04)キーワード4 『鳥』
渡り行く君の、憩いになりたい
留め置くことは願わない
……だけど少しでも長く
君が留まってくれることを
祈るだけなら、許してくれるよね?
05)キーワード5 『風』
何を言い、何を見せたら、おまえは納得するのか
形のないものを証すことなどできるはずがない
だが、もし今、おまえが俺に何か感ずるのであれば
それこそは真実
06)キーワード6 『無』
やだっていうならもう会わない
全てかゼロか、君が決めてよ
遠慮することはないよ
それでなくなるものなら
端からなかったと思うだけだから
夢幻をいつまでも追い続けられるほど
俺はロマンチストじゃないからね
で、君はどうするの?
07)キーワード7 『光』
いや、灯りはつけておいておくれでないかい
今宵はおまえの顔を見ていたいのだよ
ああ、できれば一度
お天道さんの下で会いたいもんだね
何するでなく、二人
通りをそぞろ歩いてみたいよ
あの大門の外へと
おまえを連れ出すことができたらねぇ
08)キーワード8 『水』
あなたを沈めてしまいたい
09)キーワード9 『火』
煽ってなさいんすえ? そんため息は
そんならもっと上手に吹いておくんなんし
そんでは蝋燭の火ぃも揺れんせん
わっちが手本をおみせいたしんしょ
ほれ こうでありんす なぁ若旦那
10)キーワード10 『時』
ともに歩く未来が望むべくもないのなら
せめて互いに過去になる時が
一刻でも遠いことを願うしかない
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次にバトンを渡す人。
黒崎さん(@雲路の果て)、もしこちらをご覧でしたら、なにとぞ一つよろしくお願いします。
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このバトン、他所様で見る分には大変興味深く面白かったんですが、自分で書くのは、アレですね。もだえるというよりか、頭をかきむしるような思いを覚えました。
10のうち6は当サイト作品の登場人物たちの「口説き」を想定しているんですけれども、……誰が誰に向けた言葉なのか想像できるのは、二つ目くらいかな。
それにしても口説くという行動は、
「してほしい」「させてほしい」
という欲求の権化と申しましょうか、なんとも濃く凝縮された思いを感じます。
欲求というとちょっと生々しいですが、強く希う思いの結晶みたいなのんだなあ、と。まあ、今回選んだシチュエーションが正統派でないから、一層だとは思うんですけどね。
ストレートにぶつけられない思いのほうが、言葉に熱気が籠もっちゃうのかもなー。
でもそうですねぇ。
わたしが誰かを本気で口説くとしたら、たぶん言葉は一切使わない(笑)
声にならないもののほうが、大きいんですよ、たぶんね。