日記を書くということが、一日の反省に繋がっているのなら、このところの落ち着きのなさは「日記を書かないでいるから」かもしれないです。
そういうことで、一週間分の反省も込めて日記を書いてみました。
今日はまず朝から仕事でヘビーパンチを食らいました。
ダイレクトメール発送用の顧客住所を管理しているデータベースが壊れてしまったのです。
壊れたのはアプリケーションのバグなのでわたしの責任ではないのですが、バックアップを取っていなかったのは言い逃れしようもないわたしの責任です。
データ件数そのものは970件にも満たないのです。再入力が可能なら二時間かからず復旧できる分量です。けれども紙もなければデータもない。あるのはわたしが入力管理を初めて以降の90件弱のデータのみ、という……。10分の1にも満たないデータ量では、焼け石に水でしかありません。
バックアップを複数とっておくことはわたしにとっては当たり前のことなのですが(だからこそ、90件のデータのバックアップがあるわけですが)、バックアップデータを作る文化が未だない文化もある、と申しましょうか。
いえ、もちろん業務を引き継いだ時点でのデータベースのバックアップを怠ったわたしがいけないのです。
だけど、まさか何一つバックアップになるものがないとは想像しえなかっただもの。ガックリ。
そういうことでサルベージに時間がかかっています(現在進行形)
他にも「ほんと予定通りには行かないものよね世の中は」みたいなことが立て続けに発生して、白髪になりそうな一日でした。
あ、でも、いいこともありましたよ。
友人と二人で呑む機会に恵まれましてね。いろんな話を聞けてよかったと思います。一対一で話すのは久々だったから本当に嬉しかった。お互いに踏み込んだ話もできたしね。
頑張っている人の話は、何よりの励ましになることをあらためて実感します。
慰められてもどうにもならんですから(笑) その一瞬は心地よいかもしれないけどね。慰めでは問題は解決しないもの。
「癒し」は無力だとわたしが思うのはそこなんですよねぇ。癒しても癒しても、傷の原因を解消しないとイタチゴッコでキリがないから。
だから慰めよりも、頑張っている友人に恥じない頑張りをしたいと願えることのほうが、わたしには力になる感じ。そういうのをわかってくれていて、頑張っている姿を見せてくれるのだと思うのは……さすがに自惚れが過ぎるかな(笑)
まあ、終り好ければすべてよし。そういう本日でした。
そういうことで、サルベージ、頑張ってきます。
引上げるお宝は、わたしの「未来」 なんてね。
順風満帆とはいえないけれど、まずまず凪いだ日々が戻ってきつつある感じ。
確信には至らないけど、荒れてないなら凪いでいるうちに含めてもいいかなって思う。
完全に凪いでしまったら大海原で往生しちゃうし、自力で漕ぐのは疲れるし、自動推進機関を導入するのだってタダじゃない。導入したら導入したで整備も必要になる。だから多少の風は必要なんだよね。
波風が立つことを好まなくても、吹く風の全てを止めることは望んではいけないし、その前に全ての風を止めることなんてわたしにはできないし、吹く風が時に追い風になっている事実を受け入れなくちゃいけない。三つ目に関してはちょっと腹立たしくもあるんだけどね。でも、ケガの功名ってのもあるし……デッドボールでも出塁すれば得点のチャンス、みたいな発想の転換が大事なのかも。
で、風が吹けば波立つのも道理。
つまるところこれが自然の理ならば、その内でなんとかやってゆくしかないんだろうなと。
凪には凪の、時化には時化の過ごし方があるもので、過ごし方はまだまだ試行錯誤なんだけど、そういうものだと思っていれば、どんなときでもそこそこ幸せでいられるような気がする。
上手に風を読み潮に乗れたなら、ローコストでプライスレスな人生が送れそう。商人気質のわたしには、非常に魅力的に思えるな。
ようするに、幸せに恵まれるっていうのんは「幸せ」を発見する能力に所以するのもなのかもしれないね。
給料日の後のお休みは、本屋に行くのが怖いです。
欲しい本が多すぎて、財布にもお金があるものだから我慢できずにどかんと買ってしまう。今日はそれでも微妙に足りなくて、カードで買っちゃおうかしら、なんてことまで考えて……いつか破産するかもしれないなあ。でも本を差し押さえられるのは、かなり痛手だから気をつけていないと。
それでも本を読むのは最高に幸せで、読むためには買わなくちゃならないし(前にも書いたけど、気に入った本は手元に置いていつも読みたいから、立読みや借り読みではダメなんです)、そのために財布が薄くなるのは、まあ、いいかなって。
今のところ小遣いの範疇だし。
でもこれね、対象が本だから「へえ、そうなんだ」って言ってもらえるけど、たばこやお酒や博打だったらとんでもないろくでなしのように罵られるよね。
同じことをしていても、対象が異なるだけで周囲の目は変わるんだから面白い。
母上から早朝電話にて呼び出しを喰らいました。
意識の違いを覚えます。
わからないことを責めてはいけないんだけど……内視鏡手術とはいえ手術を受けた直後なんですから、そうそうすぐに父が元気になるはずもないのになあ、と。
あと二十日で退院予定なのに、全然よくならない、と泣くんですよ。堪らんわい。
退院予定日までまだ二十日もあるし、「予定」なんてのは在って無きが如しですし、治療計画のとおりに成果があがらないとなれば医者は計画を見直すはずで、どうしても不安なら見直しをお願いする方法もあるんだけど……母が思っているような回復を見せない父に苛立って、わたしにあたっても仕方がないんですよねぇ……。
そのくせ権威に弱いところがあるから先生に見直しをお願いすることは憚られるようで、かつ、「予定、計画は厳守すべし」みたいな価値観があるから……苦しくなる条件を勝手にそろえて苦しんでる。可愛そうに。
病気の治療計画なんてね、そのとおりにゆけば幸いってものなんだけど。
病気らしい病気をしたことがないというのは、幸いなようでいて不幸なことかもしれないと思いました。
思えば母の看病は昔からどこかズレているところがありましたしねぇ。
症状にもよるんですけれど、病気のときってとにかく睡眠が大事なんですね。眠って体力を温存しつつ病と闘うっぽい感じなんだけれど……それを起こすんですわ、半ば無理やり。
やれ食え、やれ飲め、やれ寝すぎだと(苦笑)
日中二時間に一度起こしに来る母に、頼むから眠らせてくれ、纏まった睡眠がほしいのだと頼んだことは幼少期から数知れず。
ようするに母にとって看病とは「お世話を頑張る」こと、かつ「ありがとう」と感謝されるべきことに止まっていて、どんな世話を相手が求めているかまで気を回すにはまだまだ至らないみたい。だから看病する対象が「眠っている」と「お世話を頑張る」ことができなくてフラストレーションが溜まってゆく。そういう感じ。
ただ、まあ、そういうことは言っても病人になったことのない母には理解できないし、喧嘩になるだけなので(「こんなに頑張っているのに、わたしが悪いとでもいうの!? あんたはわたしの献身をわかっていない!!」的な思考になっちゃうみたいです。簡単だけど難しい人なんですよ)
「お母さんが頑張ってもお父さんの病気が治るものじゃないし、逆に言えばお母さんがそんなに頑張らなくても治るときは治るんだから、気長に行こうよ。今は見守ることが一番の看病なんじゃないかな」
っぽいことを説きながら、人のことはこんなにも簡単に分析できるのに、ことが己となると難しいものだと昨日を振り返りしみじみしました。
で、母を夕食に連れ出してもう一言。
「最近ちゃんと食事をしてないでしょ。栄養が足りてないと心は狩猟モードになるの。全てが獲物、つまり攻撃対象に見えてくる感じね。苛々するのはそれが原因だと思う。まずはよく眠り、よく食べることからストレスをなくしてゆこうね。お母さんが倒れたら、お父さんはよくならないんだから」
「そうねえ……本当にそうだわ」
原因を外側につくってあげると、母は忠告をよく聞くことも、最近はわかってきました。
まあ、たしかに「アンタの思考が問題のないところに問題を作ってるんじゃないの。考えを改めなよ」的なことを言われたら人は反射的に反論しますものね。自己防衛のために。
「問題はあなたの思考だけれど、その考えにいたってしまう原因はあなたの外にもあるようだから、まずはそこからなんとかしてゆきましょうね」と、ワンクッション置くほうが、ダイレクトに伝わるというのは面白いものです。
とりあえず、わたしもちゃんと食べようと思いました。まず作らねば!
昨日の凹みを引きずりつつの一日でした。
もう気にしないでおこうと思うけど、ふとした折に思い出しては自ら凹みを育てているような、そんなことの繰り返し。
案外、対人関係に弱いみたいだと己の再確認にはなりましたが。
滅多に懐には入れないだけに、一度懐に入れてしまった相手には滅法振り回されがちになる傾向を感じます。
All or Nothing
そういう極端さがわたしにはあるのだと思います。
全てと無の間の距離は果てしなく限りなく深くて広いのに、そこを認識できない心理にあるのは……なんかもったいなくていやだな。
……ああ、そうか、この「All」と「Nothing」の間をどれだけ感じられるかが、その人の心の広さに繋がるのかもしれない。
よく考えてみる価値のあるテーマかも。
言付けを預かったにも拘らず返事を持ち帰れなかっただけで十分凹み気味だったのに、返事は別の人を介して返されたことを知らされ抉れた本日。
そんなに堅苦しく考える必要はないんだけど、なんかこう、コケにされた気がしてしまったことにショックを受けました。わたしってココロせまーい、みたいな。
内容が純粋に「遊び」ならこれほど気にはならなかったのでしょうけど、準オフィシャルな要件だったことが一層心を狭めてしまった模様。
しかもその狭さが「礼儀に疎い」と相手に向かうならまだ健全なのですが、「もしかして礼儀を曲げてでも、わたしから距離をおきたいと思っているのだろうか」というような方向にねじれて発現したことは、自分でもびっくりするくらい衝撃でした。邪推もいいところ!
久しく味わっていなかった感覚には、まあ、こう、面白みを覚えなくもなかったのですけれども……。
一番の反省点は、一人でそれを処理できずに人に相談しちゃったことでしょうかねぇ。
思い出すだけで恥ずかしいので詳細は書きませんが、書けないくらいに取り乱していたことをご想像しお楽しみください……。
らしくないなあ、わたし。
よいお天気だったので、外出(歯医者)ついでに散歩に出かけました。
昔はよく一人でふらっと映画を見に出かけたり、ショッピングに行ったり、今度友だちと一緒に行きたいお店の下調べをしたりしていたのですけれど、ここ数年、そういうこともせずにいたので、なんとも新鮮な気持ちがしました。
友人がよく出かける街をふらついてみて、なるほど、こういう雰囲気は確かに好きそうだなあ、などと。
実は以前その近くで暮らしていたこともあるのですけれど、そのときは「わたしの好む雰囲気とは趣が違うんだよね」みたいな敬遠をしておりました。青かった(笑)
でも今は、それも特に友人つながりだと「わたしの好む趣ではないけれど、これはこれで素敵だなあ」と思えるんですよ。なんかとってもよい感じ。
やっぱり人とはたくさん接したいね。
好ましく思えるものが増えるのは、日々を楽しくするもの。
そういうことを考えながらおよそ半日にわたって歩き回りました。
ちょっとした思索の時間にもなったかな。
誰かと一緒の外出も心浮き立つものですが、一人でのこういう時間も大切なんだろうな。
これからはまた前のように「一人でふらっと」を楽しみたいと思います。
で、素敵なスポットを見つけたら、次は旦那や友だちと一緒に行くの。
わたしはこんなに頑張っているのに、と主張しているヒトを見て、ちょっと悲しくなりました。
「わたしは頑張っているのに、○○さん(わたしたちの上司ね)、ちゃんと見ててくれてるんですか!」
涙ながらに頑張っていることを訴えなくてはならないというのは、取りも直さず
「傍目には頑張っているようには見えない」
ということです。そして頑張りに限らず、評価を下すのは自分ではなくて、他人なんですよね。
つまり、頑張っていると主張をしなくてはならない以上、その人の頑張りは客観的には頑張っているとは言えない水準にある、ということ。
主観はどうしても甘くなりがちだから、まあ、仕方のないことだと思うけど。
わたしとしては、自分が頑張っていることは自分が知っている。だから誰に認めてもらう必要もないじゃない、と思うの。
たまにはわたしの頑張りに気づいてくれる人がいて、認めてくれる人がいて、そういうときは幸せだと思うけれど、そうでなくても別に不幸じゃないんですよね。単に「普通」なだけで。
思うに、「認められない」と嘆く人は、心のどこかで「認められて当たり前」だと思っているんじゃないかな……だから認められないことが「普通」ではなくて「不幸」になっちゃうの。
だけど、どんなことでも言えることだけれど、「当たり前」の要求水準を上げてしまうと「幸い」が減って、「不幸」が増えるんだよね。
なんかすごく切ないなあ。
だって幸せを「当たり前」に享受したいからの心の動きなのにね。
……ただ、まあ、客観的に見て彼女の頑張りは彼女の「私」に対する頑張りでしかなく、会社に利益をもたらすものではないので、……えー、うん。認められにくいとは思う。
認められたいと思うとき、どんな場面で誰にどんな働きを認められたいのか、の明確化は欠かせないんじゃないかと思いました。
ただなんとなく認められたいっていうのんは、あれよ、若人のみに見ることの許される夢(笑)
良くも悪くも「可能性」が「当たり前」の水準を押上げるから。
それはわたしたちを気遣ってくれたんですよ、みたいな言葉に「ううむ」となった日。
気遣ってくれるのはもちろんありがたいんだけど、わたしの行動を決めるのはわたしなんですよね。わたし以外の誰かが決めることじゃない。そして行動の責任をとるのもわたし。
そこを、わたしから選択肢を奪い決定権を遠ざけ、結果として責任さえも奪ってしまうのは、本当の意味で気遣いと言えるのか。
……わたしがわたしで選んだ結果、仮に問題が生じたとしても、それはわたしが解決すべきことであって、誰かに負ってもらうものじゃないし、負われたくもないわけで。
なんかこう、見くびってもらっちゃ困るよ、と思う。三十路(越)女を。
わたしは泣いても、吐いても、熱出ても、自分のことは自分で決めたいし、決められる人間でありたいと思っているから。事後の責任も含めてね。
そこを否定されると、ちょっと傷つく。
気遣われ、大事にされることも嬉しくなくはないのだけれども(付き合いを不意にしたくないと思えばこその気遣いでしょうしね)、でも、それ以上にわたしは「気遣い無用」な間柄を目指したいな。
安心して負担をかけられる存在、そして安心して仲違いできる存在にね。
だけど負担はかけたくなくて仲違いしたくないのもまた事実。ホント、人付き合いって大変。
大変だからそそられるというのんも、本当なんだけど。
日がなのんびり過ごしました。家に居る時間って本当に大事だと思います。
今日は旦那とふたりでダラダラとおしゃべりをしながら過ごして、ほっとしました。
考えてみると今現在、わたしが素で接せられる唯一の相手が旦那なんですよねぇ……。
友人相手にはね、多少背伸びしてるから。弱みを見せたくないとか、立派に見せたいとか、そういうのではないけれど、次に会うときまでの間、少しでも好い記憶を持っていてほしいから。
旦那はまあ、毎日一緒なので、好いことも良くないことも何もかも互いにお見通しなので、取り繕う余地はなく、畢竟、互いに寛恕しあうしかないところもあるわけで。
それが心地よいと思えるのは、外で頑張ってるからだよねー、などと言いながら、まあ、好い一日でした。
未明まで呑んでいた割りに、今日はなかなか清々しく働けました。
ここ数日の内にいろんなことがありすぎて、飽和状態になっていたからでしょうか。なにやら仕事に集中できることがすごく楽しかったです。
ま、多少の起伏は人生のスパイスですわな。
かけすぎると辛いけど。
正直、寂しがり屋もここまでくるとちょっと怖いかもしれない、ということが。
六人で呑みにゆき、一人は終電で帰宅。
体調の良くないもう一人は途中、「お疲れさまでした、おやすみなさい、お大事に」と挨拶を交わし、見送られて別れました……。しかし
携帯が鳴る、電話にでる。
『今日はありがとうございます。おつかれさまでした』
「はい、おつかれさまでした。ちゃんとお家に帰れました? お体は大丈夫です?」
『え? あ、ああ、はい。まあ。……あのぉ、今どこにいるんですか?』
「ラーメン屋です。温まってから解散する予定です」
『……ええと、あの。わたし、今、そこのコンビニにいるんですけど……』
「!?」
正直、すごく怖かった(笑) メールじゃなかった時点で何かを察するべきだったのかも。
もっとも別れるとき、友人の一人が彼女を思いやるばかりに半ば無理やりっぽく帰宅させてしまったところもあるから、彼女としては不完全燃焼になってしまったのだとは思いますけどね。
それにしても自宅の数メートル前から数キロを、寒風吹き荒ぶ中、体調も思わしくないのに一人夜道を後についてきたのかと思うと……。
あ、でも寒さに鼻を真っ赤にして、風に乾いた目も真っ赤になってて、それはちょっと可愛かったな。
自分が帰った後もみんなが会を開いていないということに寂しさを覚えたのかもしれないと友人は言っていたけれど、なるほど、そういうことなら次からは、遠慮なく引き止めちゃうよv
あまり疑心暗鬼になっても仕方がないと思うのだけれど、もしかして含みでもあるのかなあ、と思ってしまうことが一度、二度……ううむ、度々、と言うべきか。
むろんいかような含みがあろうとも、それで何が変わると言うのでもないのだけれど。
だってその人がわたしに対して抱く思いは、その人自身が解決すべきことであって、わたしの側からどうこうできるものではないですから。自己処理していただかないとね(できれば永久に)。
なのでまあ、できるだけ気にしないことにしています。
ただ、彼女の目下の興味はわたしとわたしの友人と、わたしの友人に仄かに懸想している彼女との関わりなんだけれども(彼女的には三角関係なんでしょうかねぇ)、正直なところこれには少々辟易しています。
なんかもうね、今さらそういうイベントにきゃあきゃあ言うような時分は、わたしとしてはもう当に過ぎたっていうのかな。彼女のノリについてゆけない。三つ違うとこんなものなのかしら。
わたしは友人を大切にしたいだけで、それも声高に「大事にしたい、大事にしている」と叫ぶようなものでもなくて、ただ本当に、十年先、二十年先、三十年先、白髪になってシワクチャになって入れ歯になっても今と同じような空気で、思い出したときに約束もなく思い立つままに酒を酌み交わせたらいいなあ、と願っているだけなんだよね。だから
一時の下世話な興味でわたしの三十年計画を邪魔しないでくれ
と、思うのでした。無謀な望みだと思わなくもないけれど(笑)
……彼女は案外刹那的な付合いしか念頭にない人なのかもしれないな。長いスパン(十年単位)での人付き合いを考えられない人も、世の中にはけっこういるからなあ。
できるだけ細く薄く長く、小出しに関係を保ってゆきたいところに、彼女みたいな人が入ってくると、ぶっちゃけ困るし、戸惑ってしまう。あなたはわたしや友人たちをどうしたいの、と。
彼女はすごく寂しがり屋だから、一生懸命わたしやわたしと友人の間の係わりに触ろうとしているのでしょう。それは本当に悪意もなく、楽しそうだから触れたいだけなのだとも思います。
接してみたいと思われるだけの良い関係がそこにはあるのかもしれないと思うと、それには嬉しさも覚えます。
でも、彼女が無神経に「触り」たてることがわたしが目指す願いの「障り」になるかもしれないことには全くの無関心であるような気がしてしまうんですね。
日常の場面ではものすごく気遣いのある人なんだけれど、この件に関しては予想以上に無神経な一面があるんです。それとも「障り」たいのが本音なのかな。
まあ、わたしはどちらかといえば生来人にはあまり触れられたくない性なので、彼女に触られまくっている慣れない現状に多少ナイーブになっているのかもしれませんが。
……そうだね、やっぱり気にせずに行こう。良くない考えに囚われるのが一番好ましくない。
彼女のことは彼女が解決しなくちゃならないように、わたしのことはわたしが解決しなきゃ。
誰も邪魔にはなりません。邪魔になるのはわたし自身のネガティブな感情です。よし、解決。