Diary

4月15日(金)

 二月に購入した桜。一枝ずつ元気がなくなってゆくのは何故なんでしょう……。
 とある一点(枝先)から枯れ始め、今やその枯れ具合は幹に迫りつつあります。
 剪定などは一切していないのですが……枯れた枝は落とすほうがいいのかな。でも桜は雑菌に弱いって言うしなあ。
 今しばらくは様子を見つつ……でもだからってできることはなくて、枯れないでと祈るくらいしか……。
 桜の育て方を勉強してるんだけど、間に合うだろうか。

4月14日(木)

 見せるためのものとそうでないもの、という話を某友人としていたら、こんな話が飛び出しました。
「可愛いねー、見せて」と言うのでお財布を手渡したら、中を開けて現金のやカードまでチェックされた、と。
 その昔、携帯見せて、といわれて見せたら、電話帳の中身まで見ていた、という困った人の話を聞いたことはあったけど、身近にも似たような被害にあってる人はいたんだ、と感心してしまいました。
 以前わたしも「そのバッグ素敵ね、見せて」と言われて渡したら「中も見ていい?」というようなことを言われたことがあります。イヤだというほどのことでもないので「どうぞ」と応えましたが、内心「見てどうするんだろ」とは思っていました。
 まあ、バッグやお財布の構造、携帯の機能を見たいっていうのはあると思うんですけど、バッグやお財布、携帯ってプライバシーの塊だと思うんですよねぇ。それを「見ていい?」と尋ねるならまだしも(これでもすでに図々しいと思うけど)、勝手に開けちゃうのは凄いの一言。
 たぶん、そういう人の頭の中では「バッグ(財布、携帯)を見せて」の中には「バッグ(財布、携帯)の中身も見せて」が含まれちゃってるんでしょうね。コップと水がイコールで結ばれてる感じ?
 逆に、「ガワだけ見てなんの役に立つの? 中身が重要なんじゃん!」みたいなふうに思ってるのかも。空のコップに用はない、と。
 ま、バッグや財布や携帯を、知っている相手とはいえ渡しちゃうのがそもそも、セキュリティ意識の欠落なんでしょうけどね。
 そういうことで以来わたしはバッグやそれに類するものは、基本的に相手を選んでしか見せないことにしています。
 とは言え、自宅への来客が、そういった人だとどうしようもないわけで。
 たとえ床と天井と壁だけの空間を作って御案内しても、きっとそういう人は壁紙や床材、カーペットについてあれこれと論うんだろうと思うと、
「どうしようもないね」
 来客も全てが選べるものでもないですしねぇ……
 好きに見て行け、と言えるほどおおらかになれたら幸せなんだけどな。でも
「おおらかになりたいねぇ」
 と言ったら、
「おおらかに受け入れれば受け入れるだけ、そういう人は図々しくなるよ」
 と言われて「……」
 それはヤメテー(笑)

4月13日(水)

 日記のサボり癖がついてしまいました。
 無理をして毎日書く必要もないかなー、とは思うのですが、日記である以上、更新頻度はせめて隔日程度でありたいと思うのでした。
 ということで、以下(11〜13日間)振り返っての記述です。
 昨日の日記に母のことを書いていて気がついたんですけど、片付けてあるものにまで目を止めて、「あれはなに」「これはなに」を言う人はほかにもいました。誰とは言いませんが(笑)、言えない相手だと思ってください。
 たとえばわたしの机下に片付いている辞書を見て、「同じ物が何冊もあるのはどうして?」とか、化粧品をみて「これは何のためのものなの?」「使い心地はどう?」とか、お風呂の使い勝手をあれこれ、台所の機材配置をあれこれ、部屋の間取りをどうこう……。そのうちジュエリーボックスや箪笥の引き出しまで開けるんじゃなかろうかと、少なからずヒヤヒヤしたことも。
 案内していない部屋の扉を開けたがる人とかね。開けた人もいたしね……。そこはただのベッドルームです。
 まあ、そういった人は極めてお行儀とお育ちの悪い例外だとして。
 基本が「他人」である人々は遠慮もあって「どうして?」で終わるけど、母はもう少し踏み込んで「どうして? こっちのほうがいいじゃない」となるのかもしれません。
 とはいえ、わたしは余所ん家の物品や間取に気を止めたことがあまりないので、「どうして?」でさえ時には「細かいことを気にするひとたちだなあ」なんて思ってしまうこともあるのですけれどね。
 どんな暮らしをしているのか気になるのかもしれませんが、パンダの檻じゃないんだから「あ、笹があるよ! あれを食べるんだよね!?」とか「あ、タイヤがあるよ! あれで遊ぶんだよね!?」とか、そういうノリで逐一論われても困っちゃう。
 家の道具って、客に見せるために置いてあるわけじゃない物がほとんどだと思うんですね。飾り物であっても、主たる用途は家人の心を満たし慰めることだと思いますから。それでもまあ論評の対象が飾り物であればまだしもですが。
 そういう物品のひとつひとつに、よくまあ、気が回るものだと呆れ半分に思います。
 見せることを前提にしているものと、そうでないものの区別に弱い人との付き合いは、難しいです。

4月12日(火)

 母がわたしに対して持っている距離感は、わたしが母に対して持っている距離感よりも随分近いみたいです。
 少し前に話題になってた「友だち親子」とか「一卵性親子」を望んでるのかもしれないとは思うのですけど。
 あるいは、母がそうだと思い込んでいる「わたしらしきもの」と、「わたし」が違うことを母は理解したくないのかもしれません。
 それはともかく、嫁いでもう八年が過ぎているわけで、いい加減子離れしてほしいというのが正直なところ。でも、わたしが一人娘ということもありどうにも離れてくれません。困ったものです。
 遊びに来るだけなら歓迎するんですけどね、いちいち家のありとあらゆるところを指して「あれはこうしたら?」「これはこうするほうがいいんじゃない?」「わたしならそれはああするけど?」を連呼されると、さすがに億劫になると言うか面倒になると言うか。
 母が勝手が良いと思う配置と、わたしが勝手が良いと思う配置は昔から違っていましたから――たとえば書籍をサイズやカラー別に整頓してくれるんですよ。カテゴリ別に分類するとサイズやカラーが揃わなくて部屋が雑然と見えてイヤなんだそうです。一度などはわたしの蔵書の配置がどうしても気に入らなかったらしく、帰宅したら全てにカバーがかけられていたこともあります。その努力は買いますが……きれいに見えてもどこに何があるのかわからないんじゃどうしようもないので全部剥がしました――実は結構「ありがた迷惑」なんですよねぇ。
 新婚当初からその傾向はあったのですけど、……う〜む、娘の新居(まっさらな環境)で自分の理想を実現したがっている、という感じなのかな。
 そのわりに自分が要らない(そしてわたしも欲しくない)鉢植えを置いていってくれたりもするんですけど。うちはゴミ捨て場じゃな〜い!(笑)
 あ、でも思えば今日は二時間、父母ともに一本もたばこを吸いませんでした。
 わたしが灰皿を出さなかったからかもしれないけど(うちには喫煙者がいないので灰皿を用意する感覚が稀薄なのです)、ちょっとは気をつかってくれているのかも。
 とすれば、これはいい傾向だ。自己と同一視している相手には気を使うなんてありえないですものね。
 ああ、そうか。やっとわたしが一人前として母の目に映るようになったのかもしれないな。
 ちゃんと子離れさせるには、わたしのほうがもっと成長しなくちゃいけないか(ため息) 精進精進

4月11日(月)

 先週末から4連休を取っていた旦那が久々に出勤。
 わたしも久々に家事に真面目に取り組みました。旦那の休日はわたしの休日でもあるので、旦那が休みの日は畢竟家事も滞り気味に。
 食事のしたくも二人でしたりするので楽なんですけど、掃除とか洗濯とか、まあ、毎日やらなくても困らないことは後回しになりがち。
 外出気味になるのもその理由のひとつなんですけど(出発当日、出かける前に掃除や洗濯をすると早朝なので時間的に御近所の迷惑になりますし、帰宅後は夜ですからこれもまた同じ。マンション暮らしの不便なところです)、外出しなくてもなんとなく掃除洗濯はしたくない。
 だって寛いでるのに掃除されるのは気持ち良くないですもの。掃除してない部屋で洗濯物を畳むのもなんかヤですし。
 そういうことでのんびり過ごした4日の後片付けをしていました。
 気持ちよくすっきりしていい感じでした。

4月10日(日)

 web物書きの間で批評が嫌われる理由を考えていた本日。
 真っ先に思いついたのは、素人同士での技術評価ってのがギスギスする原因になるのかも、と。
 でも技術評価=批評でもないし、技術に触れていようが触れていまいが嫌われる批評はあるものです。
 そこで批評とは何ぞや、というところから考えることにいたしました。
 まずは単純に言葉としての「批評」
 簡単に書くと「物事の善悪、優劣、是非を比較して考察、評価すること」だと思います。
 次にここからわかることを箇条書きにします。
 ・批評の対象は、限定できない
 ・批評とは、比較である
 ・比較によって得られる評価は、相対評価である
 さらに、前述を踏まえ批評に必要とされることを記します。
 ・比較するには、適切な比較対象が必要である
 ・適切な比較対象を選別する見識が、批評者には求められる
 やはり批評とは決して技術評価だけではありませんでした。
 しかし批評対象は技術に限らないのに、技術評価を中心としたものが数を占める現実があります。
 なぜでしょうか。
 心意気や姿勢より、技術を評価するほうが、俄然簡単だからです。
 これが特にマイナス採点方式での評価だったりすると、さらに簡単です。見識もさほど必要ありません。
 つまり技術評価に偏った減点式の批評とは、「逃げの批評」であるのだと思います。
「逃げをうっておきながら、他人様を減点方式で採点する」卑怯具合が、ヘタレ批評家の嫌われる原因の中核を成しているのではないでしょうか。
 ヘタレな批評をヘタレと笑ってしまえればよいでしょうけれど、謙虚で心優しい人ほど傷つき思い悩んでしまう……そして「批評お断り」という対応が取られるようになるのだと思います。
 これがさらにエスカレートすると、「事前の許可なく批評するのは失礼」というところまで自己防衛に入ってしまうのかもしれません。失礼、とどこから持ち出したのかわからないマナーで相手を先制攻撃することで、守ろうとしている。
 なんかね、イナゴの佃煮を思い出します。
 開けてびっくりタッパーにみっちり詰まったイナゴの佃煮! 驚いて取り落とした後がまた涙。
 そういうことで「批評」を「イナゴの佃煮」に置きかえてみてください。
 好きな人は好きですが、ダメな人はダメなんです。好きに理由がないように、ダメにも理由はありません。
 見るだけでもイヤ、口に入れるなんてとんでもない。噛むなんてご冗談、呑みこむなんて絶対ムリ!
 そういう人の体を押さえつけ、無理やり口をこじ開けて、咽喉の奥にねじ込むような真似をするのは狼藉以外のなにものでもありません。それで良いことをしたつもりになるのんは、極めてヤバイ病気です。
 でもだからって「イナゴの佃煮」を贈答品にすることを失礼なことだとは言えない。「これはわたしは食べられません、苦手なんです」と表明することは大切――言わなきゃ次も善意で持ってきてくれちゃいますから――ですが、「何よ、こんなものを持ってきて!! あんたちょっと失礼なんじゃない!!」なんて怒っちゃいけないわけです。
 イナゴの佃煮を作り勧める権利はあっても、無理やり食わせる権利はない。
 イナゴの佃煮を断る権利はあっても、勧める人を罵り排斥する権利はない。
 そういうことなんじゃないでしょうかね。
 なんてつらつら考えると「イナゴ食います?」「ええ、是非」とか「イナゴ如何です」「いえ、イナゴはちょっと」とか、事前のリサーチはあってもいいのかもしれませんね。
 唐突なイナゴにも「お気持ちは嬉しいのですが」をつけられる余裕は欲しいものです。
 驚いて落としてしまったりすると、なお居たたまれない状況になりますからねぇ……足の上にでも落ちようものなら、飛び上がった拍子にうっかり踏んでしまおうものなら!
 えー、わたしは批評はうぇるかむですが、イナゴの佃煮はのーさんきゅーです。
 その節はすみませんでした、伯父上。

4月9日(土)

 ベランダの大掃除をしました。
 鉢を抱えてあっちにいったりこっちにいったり。中腰厳禁なのでおよそ7,8kgの負荷を抱えてのスクワット。今度は膝が壊れるんじゃないかと思ったりもいたしましたが、無事でした。
 旦那も手伝ってくれましたしね。ありがとう。
 退職前の悪魔の一年半で荒れ放題に荒れてしまったわたしの小さな庭ですが、今日からまた以前のように花一杯の庭にできるよう手入れしてゆくつもりです。
 枯らしてしまった鉢を片付けることで、いかにあの期間、ストレスを抱えて暮らしていたのかを思い知った気分です。
 ただ単に、嫌いな人がいただけなんですけどねぇ……。そしてわたしはその人を好きになる努力をしなかっただけ。
 ぶっちゃけ、好きになる、理解する努力をせずに、ただ我慢だけして何かとても凄いことをしている気になっていた、と。
 退職して時間と距離を置いてその人のことを思い返すと、わたしが親しくなることを拒まなければ、また親しくなろうとさえ思っていれば、結果はきっと違っただろうと思うのです。
 我慢しかせずに、ただただストレスを溜めて……自分が馬鹿だと思う瞬間って、こういうとき。
 そうやって溜めてしまったストレスを、この子たちが吸い取って身代わりに枯れていってしまったのかもと思うと、ありがたく、切なく、申し訳ないのでした。

4月8日(金)

 目覚めて身を起こそうとしたところから、ひどい筋肉痛に「ぐわっ」という、今日はそんな一日。
 昨晩も筋肉痛に泣きながらストレッチしたんですけどねぇ……まあ、効かないとは思っていましたが。
 足は少々痛い程度なのですが、背中と腰脇の筋肉はガチガチになってます。これも腰痛の影響なんでしょうか。
 おかげで今日は摺り足です。だって足を上げると腰が痛いんだもの。
 腰を痛めて二週間くらい。痛みはとうに引いて、日常生活は際立った不調もなく送れてはいるのですが、やっぱりどこかで庇っているのかもしれません。
 そういうことで本日は特に外出する予定もなかったので、朝からシップ貼りに勤しんでます。
 おかげでちょっと寒いです(笑)

4月7日(木)

 我が家の年中行事と化しつつある「吉野山ハイキング」に行ってまいりました。
 桜のほうは下千本は五分、中はちらほら、上、奥はまだ蕾。桜を楽しむならもう少し先がよいのですが、我が家の場合桜はオプション。ハイキングが主目的なので、寒くなく暑くなく、人がそれほど多くない今の時期がベスト。ということでお休みを頂いての小旅行。
 あ、でも枝垂れ桜は今が花盛りです。
 さて今回は下千本駐車場に車を止めて、奥千本の西行庵までを往復しました。
 前回はわたしが足を痛めていたこともあり、上、奥は諦めて中千本から如意輪寺を往復するだけで精一杯でしたので、今日はぜひとも奥千本まで歩きたかったのです。
 とはいえ腰もまだ少し不安。そこで上千本から奥千本までの上りはバスを利用いたしました。
 なので往路はまだ余裕もありましたけど、復路、上千本から中千本への下り道、膝が笑い始めて難儀しました。
 今回は合計4時間の山道をほぼ歩きっぱなし(五分弱の休憩を三度+バスでの移動約十分)でしたから、それも仕方がないとも思いはするのですが、やっぱり体力の低下は明らかでしたねぇ……。
 微妙に腰を庇っているから、というのも理由の一端かもしれませんが。
 ともかくもこれは拙いなあということで、基礎体力の充実を図りたいと思います。
 とりあえず筋肉痛が治ってから、ということになるでしょうけどね(苦笑)
 山道を歩きながらお話の構想を練ったり旦那にそれを相談したりツッコミを入れられたりで楽しい一日でした。

4月6日(水)

 類語辞典を読む一番の理由は、同じような物事を表す、しかしニュアンスが異なる言葉を知るためです。
 知っていないと、似た言葉ではあっても置きかえのできない言葉を置きかえてしまうような間違いを、うっかりやらかしてしまうような気がするからです。
 たとえば辞書・辞典レビュー「似た言葉使い分け辞典」でのコメントにも取り上げた「永久」「永遠」「悠久」「恒久」「永劫」の差。
 似ている、とか、同じような意味、というだけで覚えていると「悠久の恋」とか「永劫のラブ・ストーリー」とか、ぱっと見には読み流してしまえそうだけど、「ん?」と眉がよってしまうような失敗をしそうなんですもの(あえて通常は不適切であるとされる語を組みあわせて効果を生むという手法もありますが)
「衆目」を「人目」には置きかえられないし、「垣間見る」を「覗く」や「盗み見る」に置きかえるのは無理があります。
「風貌」を「容姿」、「喰らう」を「食う」には置きかえできないときもあります。
 さらに慣用的な表現をする場合は難しいですよね。
「煮え湯を飲む」を「熱湯を飲む」に置きかえたら、意味がいまいち通らない。
「行きがけの駄賃」を「道中の駄賃」と書いたら、意味が違っちゃう。
「耳朶に触れる」を単純に「耳に触れる」とは記せない。
 だからって「耳に入る」なんて全体を置きかえるとニュアンスが異なってしまいますしねえ。
 逆もまた然り。
「パンの耳を齧る」はOKだけど「パンの耳朶を齧る」はNGだしね。パンが人名ならOKかもしれないけど(笑)
 まあ、でも、学ぶとか知るとかそういうことはさておいて、「類義語はあくまでも類義語であり、同義語ではない」ところに興味をそそられるというのが本音かなぁ。
 日本語の語彙の多さに惚れてるってのが一番かもしれません。

4月5日(火)

 わたしは基本的に「第□話第□章第□節第□項」と数えるのですが、某所にて「第□章第□話」で話が進められていて「あれー?」という気分。
 わたしの感覚を図式で表すとこんな感じかな。
 volume(小説) > episode(話) > chapter(章) > section(節) > subsection(項)
   鬼喰     > 第三話 萌兆 >  第六章  >章の区切りが節>節の区切りが項
 たとえば上記の例の場合、節は前半部の現在の時間軸でのお話と、後半部の回想シーンで分かれています。
 さらに前節は「自嘲」「志野」「洋」、後節は「父母」「縁起」「自省」のそれぞれ三項構成。
 はっきりと意識して計画の上で書いているのではないのですが、だいたいそういう感じで書きあがります。
 なので章の中に話があるのは、とっても不思議に思えたのでした。
 一回の更新分を「話」と数える場合は多分、chapterかsectionの意味だと思うんですけども、まあこれは定義があるわけじゃないですしね。
 面白いと思ったのは、こういう数え方の齟齬があると、
「連載小説を検索エンジンに登録するときは最低でも2,3章は揃えてからにしてほしい」
 これをどう解釈するか。
 わたしは第一話の3ページ(章)目から登録しても大丈夫なのかなって思ってしまうけど、発言している人の話と章の順番によっては、第三話まで書き上げてから登録、ということになるんですよね。
 ……それはちょっと御勘弁(笑)

4月4日(月)

 言いたいことや書きたいことはたくさんあるんですけど、それをここでツラツラと語ってしまう、これが創作意欲を低下させているのでは、と思う本日。
 主張は作品で! なんて面白くもない主張をする気はないけれど――小説に盛り込めることにも限界がありますしね。というか、作品をそういう手段にしたくないとも思いますし――、自分の思っていることをまとめて表明してしまうだけである程度満足してしまうのは事実だったり……。
 実はそれもあってエッセイを書くのを止めてるんですけど、エッセイとして書かないかわりに日記でこぼすというのではダメなのかもしれません。そんな代替意識をはっきりと自覚しているわけではないですが。
 でも仮に考えていることの全てを小説と言う形態で表現するとなると、表現しきるまでには随分な時間がかかります。
 この時間、もんもんと内に抱え込んでいると、これまた意欲的に執筆に取り組む気持ちが減衰してしまう。
 バランスが難しいなあ、と、思います。
 まあ、バランスなんてあえて考えなくたって落ち着くところに落ち着くんでしょうけどね。

4月3日(日)

 旦那と一緒に車を洗いました。
 わりと何でも完璧をもとめるきらいのある旦那は、車を洗うときも同じく。
 水で流して洗剤で洗って乾かした後にワックス、仕上げに磨き、までやらなければならない、と考えるわけです。
 で、結局面倒臭いからやらない(機能的に問題はないから、と洗車にも出さない)。
 わたしも機能的に問題がなければ気にしないクチではあるのですが、フロントウィンドウの汚れは「機能に障害あり」と判断するに十分な汚れ具合でしたので、半ば無理やり洗車につき合せました。
 とはいっても、バケツ一杯の水と雑巾二枚、仕上げ用の布二枚(古くなった手ぬぐい)だけが道具という手抜き洗車。所要時間十五分。
 たっぷり水を含ませた雑巾で、こすらないように汚れを流し落とし、ウインドウやミラー、バンパーを拭き、足回りを軽く拭っておしまい。
「あとは、今晩降る雨の勢いしだいだね」
「洗車の後に雨が降ったら拙いんじゃないのか」
「ワックスはかけてないから大丈夫。斑になんてなりようがない。今回流しそこなった埃が雨で流れれば御の字、ってこと」
 しとしとと降る雨は風情があってよいのですが、これが一番車を汚すのです。ざーっと降ってからっとあがってくれれば、ありがたい。
 そんなことを話すと、
「事が手抜きに関しては敵わんなあ」
 ……抜けるところで抜くのが手と息ってもんですよ、ええ。

4月2日(土)

 鬼喰第三話が終わったら、Eyesの更新を再開しようと思っています。風紋も3月はお休みしてしまったので、こちらも4月から月1回更新すべく努力中。
 で、このところこの三作しか手をつけていたなかったので別の作品を書いてみたい気持ちがうずうず。
 同じ作品だけを書き続けているとどうにも息切れがしてしまうので、息抜きに軽めのお話を、不定期で綴ろうかと考え中。
 掌編×36話、全部あわせて……そうですねぇ、原稿用紙で300枚くらいを予定しています。
 話数でぴんときた方もいらっしゃるかと思いますが、seedsさん(星明かり亭)の別館「お題配布処シーマの館」の「36 etude」への挑戦でもあります。
 ネタそのものは一年くらい前に思いついたのですが、なかなか形にならなくて思い悩んでいたものが、このエチュードを見て閃いた感じ(笑)
 がんばるぞ。

4月1日(金)

 更新履歴のリンクミスのご連絡、ありがとうございます。本日未明、修正いたしました。
 さて、本日はエイプリルフールでした。昨晩急にいたずらを思いついたので、急遽実行いたしました。
 作り終えた後、我ながら「なんって虚しい嘘を……」と思いもいたしましたが、作っている最中は「嘘」であることを忘れて没頭でき、とても楽しかったです。
 いつか本当にできたらいいなあ、などと夢を見つつ……ええ、馬鹿はわたしですとも!
 お馬鹿な嘘にお付き合いくださいました皆さま、ごめんなさい。ありがとうございました。
 今日から4月。
 新学期、新年度、新しく始まる季節が皆様にとって明るいものでありますように。