御猫は恋の季節。
思う存分、恋の歌を歌わせてやりたいのですが、ご近所さまへの迷惑を考えると夜間のそれはできません。
ということで、昨夜と一昨夜は猫をあやしつつの添い寝inコタツ。
半分寝ながら猫じゃらしを振り、半分寝ながらグルーミングをし、半分以上寝ながらマッサージ。
今日はさすがに体が軋みます。
でも、その程度のことで、御猫がご近所の嫌われ者にならずにすむなら易いこと。
それに、せいぜいが三日ですからね。激しく歌いたがるのは。
もちろん、二週間周期くらいで四月くらいまでは続きますが。
この添い寝でまどろみの夜を、執筆に充てられたらとも思うんですけども、……深夜の執筆はわたしにはタブーなのでした。
とんでもないことになりますからね。夜話のように。
仕事を辞めて、やっとプチサポセン状態から解放されたと思っていたのに、今度は母です。予測の範疇なので、まあ、OK。
今日は印刷ができないとのことだったのですが、原因は、
「プリンタの電源を入れずに印刷しようとしていた」
たったそれだけのことを解決するのに電話で1時間。
母も一生懸命話してくれるのですけれど、「灰色の何かがぴょこぴょこ」とか「白くて丸いのが緑で」とか「全部真っ赤で」とか、つまり最終的に何もかも「わからない!」
「何をしようとしていたの? 何をしたときにそうなったの?」
と訊ねても、「できなかった」ことにショックを受けているためか、こちらの問いかけには一切答えを返しません。ただひたすらに「灰色の何かがぴょこぴょこ」以下を繰返すばかり。
落ち着いて、わたしの質問に答えて、と重ねて問うと、
「わからない!」「思い出せない!」
仕方なく思う存分喋らせてから徐に
「ケーブルは繋がってる?」「うん」
「どんな状況で繋いだの?」「電源を入れてない状態で」
「今は電源は入ってる?」「うん」
「パソコンとプリンタのどちらを先に電源入れた?」「パソコン」(← 間違い)
「パソコンを立ち上げて、プリンタの電源を入れる前に印刷しようとしたのね?」「そう」
「今はプリンタの電源は入っているの?」「うん」
「何かエラー表示は出てる?」「出てるみたい」とひとつずつ確認。
ぴょこぴょこしている灰色の何か、というのはダイアログボックスだろうと見当をつけ、タイトルバーの内容を読み上げるようお願いすると、ここでもまた「わからないの!」
「文字が読めないなんてことはないでしょう」
苦笑まじりにそう言うと、初めて何かに気がついたように「……あ、そうよね。ごめんごめん」
これですこし母の緊張もほぐれたのか、互いに笑いつつ、その後はスムーズに解決に至りました。
こういったことに接して思うのは、本当に何をやったのか思い出せないのだろうか、ということ。
本当は「覚えてるんだけど、言いたくない」だけなんじゃないかなあ、と思うのです。
なぜなら「あなたのその行動が原因です」と言われたくないから。
原因が自分の行動にあったのではなくて、「プリンタが不調だった」ということにしたい。
もちろん不調の原因は、(自分が原因だと言われるくらいなら)不明のままで終わらせたい。
間違っていたことを自覚さえしたくない。
自分は間違っていなかった、不幸な偶然が重なっただけ。
そう考える人が決まって言うのは、
「原因はどうでもいいの。できさえすれば」
でも、できが悪いと反対のことを言う。
「できじゃないの。努力が大事」
その気持ちはわたしにもわからなくはないんだけど(笑)、そうやって自己の外に責任を転嫁し続ける限り、いつまでたっても成長しないんですよね。そして、何事かが起こるたびに、誰かを頼るの。頼るんだけど、自分の失敗による結果ではない(と、意識の中で処理をしてしまう)から、助けてもらっても当たり前のように感じてしまう。でも、その「当たり前のこと」がやっぱり「わからない」から、ストレスはますます助長され、さらに情緒不安定に。
繊細で完璧を求める人ほど、そういう心理に陥りやすいのかもしれないなぁ……。
そういうことで、母上には「あなたが手順を間違ったために発生した不調です。慣れるまでは手順のひとつずつ確認しながらやってください」ときっちり説き諭し、手順を何度か復唱していただきました。
これでもう印刷に関する手順では問題は発生しないでしょう……インクの交換とか、紙詰まりとか、ヘッドのクリーニングとかは、そのうち……いや、近いうち、かな。
まあ、しばらくはあれやこれやと楽しませてくれそうです。
リンクミス他、ご連絡ありがとうございます。本日修正いたしました。
今日は母上がWordの練習に来たのですけれども、……なんというか、あいかわらず人の話を聞かん人です(笑)
意図的に聞く気がない、というのではなくて、もう夢中で聞いてる余裕がない、という感じなのかな。
一人で「できたー」「まちがったー」と賑やかなこと賑やかなこと。
もとよりこんなもの「習うより慣れろ」でいいので楽しんでくれて構わないのですけれど、一人で騒ぐだけなら、わざわざ人の家まで来なくてもいいのではないかと思います……我が母ながら、変わった御仁。
一作業ごとに、
「これでよかったよね!? あれ? 違った? じゃあこう!? どうしようっ、わかんない!!」
いや、わたしの顔色ではなくて、ディスプレイを見てくださいよ、操作の結果はそこに表示されますから、と。
でもまあ、見ている分には面白いので三時間存分に騒いでいってもらいました。
ひとりで文書が作れるようになるまで、あと数ヶ月は必要かもね。
つまり、こういう賑やかな日が、ってことなんだけど。
……堪らんなあ。
何度見ても「A.I.」はホラーだなー、と思ってしまうわたし。
愛情を求めるだけで与えることを知らない感じがストーカーを彷彿とさせ、なんとなく気持ち悪いのでした。
しかも母親は「ママ」なのに、その夫は「パパ」として認識できない。そういうところにもオイディプスコンプレックスっぽい印象も受けてしまうのです。
子供の愛情って独占欲や執着心と紙一重のところもあるから、ああいった「お願いお願い愛して愛して」って感じの演出になってしまっても仕方がないのかもしれませんけどね。……でも最後まで変わらないし……いや、それは彼に施されているプログラミングのせいで仕方がないことなのか。
そういえばどうして「子供を持ったことのない夫婦」をテストの対象に選ばなかったのかも疑問。
だって産児制限で子供を持てない夫婦向けの商品として「子供ロボット」を開発するためのテストだったんですからねぇ。病気の息子を持つ親に、子供ロボットのモニターとしての適正があったとは思えないなあ。……本当の子供と比較してどうか、と言うのであれば、比較対象として選ぶ子供の条件が特異すぎますし。
……まあ、結局あの怖いロボットは帰ってこなかったみたいでよかった、と思うのでした。
誰かの慰みのために蘇らされるってシチュエーションも、凄まじくイヤかもなぁ……人間の尊厳は何処へ?
最近のちょっとした楽しみは、花。
昨年は法事の連続で、その都度たくさんのお花を方々から頂きました。
多くは籠入りの大きなアレンジメントでしたが、手入れをしながらそのままの姿で楽しめるのはだいたい1週間くらい。
その後は痛んだ花を取り除き、元気のよい花を小分けしてあらためて小さなアレンジメントをいくつか作ったり、生けなおしたりしたのでした。
部屋の中、どちらを向いても花がある、という、それはなんとも心やすらぐ光景。
しかも!
元がひとつですから、色も雰囲気も考えるまでもなく統一されているというお手軽さ(←ここ重要)
頂いてから、長いときは3週間を越えて楽しむことができたのでした。
で、そういう風景に馴染んでしまうと、花のない生活はまるで想像できません。
気がつけば、お正月に生けた花もそろそろ勢いがなくなり始めてきたので、新しい花が欲しいなあと思うのです。
そこでわたしは考えた。今月は旦那の誕生月で、来月にはバレンタインデーがあり、再来月にはホワイトデーがあり、その次の月には猫とわたしの誕生日がある。
よい口実になるではありませんか(もちろん5月以降は慣例化)
そういうことで旦那への誕生日プレゼントその2は花。楽しむのは主にわたし。
こんなのんとか春らしくていいかもしれない、とただいまお花物色中。
昨日の新聞の特集にあったアインシュタインの相対性理論に興味を持ち、旦那に質問をする。
それは主観と客観という問題とどう違うのか。
特集を読み、
「暴力的なまでに端折ってあるな……」
まあ、でもそれで興味をもった人間がここにいるなら、掴みとしては上々か、などとつぶやきつつ書斎に向かう。
そして戻ってきた彼から渡された分厚い書籍数冊。
「一日でゼロから説明できたら俺がアインシュタインだ。読んでわからないことだけ聞くように」
「……」
ピタゴラスで躓きニュートンでもはや立ち上がれないほどに倒れ転がったわたしに、これの何が理解できると……?
でもこれが案外、ところどころは理解でき、わからない部分もそのまま面白かったりするので、人生ってわからない。
お正月の間サボっていた家計簿をつけてみました。
……あまりにだだ漏れだった財布の口にあらためて驚いております。
ていうか、いったい何処にそんな現金があったのやら。
まあ、帳面つけるまで気づかなかった程度のことだから、たいした影響はないのだろうけど……その金額には少なからず驚きました。
年賀の欠礼状を頂いていた方に寒中見舞いを用意しました。
去年年始のご挨拶ができなくて寂しく思っていたところ、寒中見舞いが届いてとてもうれしかったので。
うちも義祖母に義父と立て続けに亡くし、昨年末にやっと喪が明けてたところ。それでもまだまだ心の整理がつかないところもあって……だから、他人事のようには思えないんですよねぇ……。
元気出してくださいね。
ここまではまとめて更新したい、と思うのに、ファイルの重さを考えると……当初の2倍。徐々に増え続けているここ最近のファイルと比べても1.5倍。
ま、考えてもできることは三つだけなんですよけどね。
削るか、分けるか、再構築するか。
……簡単なのはファイルを分けることなんだけど、それが一番やりたくないことだったり(笑)
一晩時間を空けるかな。
欲しいなあ、とつぶやいたらしいサントラを旦那が買ってくれました。バンザイ!
読みたいと思っていた文庫を旦那が買っていたので、これ幸いと読ませてもらうことにしました。ウラー!
そういうことで「地球大進化」のサントラを聞きながら、「虜人日記」を読むというなんだかよくわからない一日になりました。
サントラを聞いていると、自然と番組の内容を思い出すのですけれども、それとこの本が敗因としてあげる項目の中の生物学的常識に対する無理解、あるいは無知、もしくは無配慮といったものとかぶり、なんとも複雑な気持ちになりました。
まあね。衣食足りて礼節を知るっていうのかな。
危険と困窮の極限におかれた人は、いわゆる人間ではなく「ヒト」という種の獣になる、というか……そういう感じ?
虜人日記に興味を持ったのは、「日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条」を読んでのことです。そこには
獣としてのヒトは究極的に自然回帰をしているので、これらに道徳やら忠誠やらを求めることは難しい。
そういう状態に陥ったヒトは、たとえ群れてはいても単に数の集まりにまで還元されていて、もはや兵力にはならない。
というようなことが書かれていたので、なるほどと思い、そのベースとなった本を読みたくなったのでした。
地球大進化を見た後に考えると、確かに「自然」には「ヒト」を含めあらゆる生命を保護する義務はないし保護してきた過去もないわけで――だからこそ、今ここに生きてある奇跡を思いもするのですけれど――自然に回帰したヒトもヒトを保護したりはしないんだろうな、と……。
こう、「自然に帰れ!」っていうのんも、話の流れと解釈の仕方によっては凄まじい発言かもしれないと思ったのでした。
まあつまるところ、ヒトを自然に回帰させることなく人間性を維持できるような戦略が必要なのだと思います。何事においてもね。
そして人間性を保つためには、生物学的な常識が欠かせないのでしょう。
確かに徹夜明けの人とか、数日食べていない人とか、……目つきからして獣っぽい感じはありますもんねぇ。
人は人として生まれるのではなく、生まれてから人になるのだ、ってそんな言葉もありましたよね。
人間が人間らしく生きるには人間(として完成している人々)との関わりが欠かせないし、そういった人々との日々の関わりの中で文化としての相互扶助に親しむことが欠かせないのかもな。
少し早い誕生日プレゼントを贈ってみました。相手は旦那。
なぜ早かったかというと、品物が早くに届いてしまったから。
予定では再来週のはずだったんだんけど……誕生日まで隠しておくのも面倒なので渡してしまいました。
でもあまりにも早すぎたので、喜ぶよりも驚いて戸惑っていた様子。
ま、たしかに二週も早く渡されたんじゃ――たまにしか会えないというならまだしも同居しているのに――驚くのも当然です。
とはいえ、驚きつつも嬉しそうなのでよかったと思ったのでした。はい。
当日はまた別に何かを用意するつもり。……お祝いの料理でも作るかな。
午前中は近くの神社を詣でてきました。
さすがに四日ともなると人は少なくて、落ち着いてご挨拶できました。
人波にごった返すあの雰囲気も嫌いではないのですが(振舞い酒もありますしねぇ)……ええっと、昨年の御礼を申し上げているうちに流されてしまう感じ?
そういうことで、数日ずらして詣でるほうが好きなのでした。
いろんな音もよく聞こえますし、匂いも静かですしね(笑)
砂利の鳴る音や、風の匂いを聞きながら境内を進むと、一歩ごとに気持ちが引き締まるというのかな。
すごく好きです、この感覚。
帰宅してから、さっそく頂いたエラーのご連絡に修正作業を。
箇所は、鬼喰の目次とメニューのリンクに第三話の二章を追加。それから同じく第三話二章の脱字を修正。
水城さん、立田さん、ありがとうございます。
それと並行して、鬼喰のソースを一部改めました。
見た目はこれまでと大きく異なることはありませんが、Javascriptをoffにしている場合への対応、それからlinkタグによるナビゲーションを記述いたしました。対応ブラウザではアンカーをクリックすることなく、ショートカットキーでページを移動できるので、以前より少しだけ便利になったのではないかと思います
順次他の読み物もそれぞれ対応してゆく予定ですが……完了がいつになるかは聞かない方向で(笑)
創作に意欲的に取り組むって具体的にどの程度よ、と思い、まずは昨年の更新状態を再確認。
風紋:本編第四夜二〜第五夜四、夜話が全六回
鬼喰:第二話五〜八、終章、番外編二作、拍手御礼用掌編二作、第三話一、二
Eyes:第六章一〜四
原稿用紙に換算しそれぞれを比較してみると、本編の進度は140枚前後とほとんど同じでした。
それぞれの進度を一覧にしてみます。
タイトル | 更新ページ | 原稿用紙換算 |
---|---|---|
風紋 (本編) | 7ページ | 140枚 |
夜話 | 6ページ | 70枚 |
鬼喰 (本編) | 7ページ | 140枚 |
番外編 | 4ページ | 100枚 |
御礼用掌編 | 2ページ | 10枚 |
Eyes (本編) | 4ページ | 130枚 |
風紋が210枚、鬼喰が250枚、Eyesが130枚、合計すると590枚。
概算の概算でしかないのですが、ひと月あたりで50枚弱、一日平均2枚強、というところでしょうか。
……あらためて計算すると、我が事ながら遅筆にもほどがある感を覚えます。
今年は一日5枚、月100枚、年間1000枚くらい(計算が合わない分は「マージン」です)を目標に。
目標が低すぎやしませんか、自分、とも思うのですが、まあ、できそうなことからコツコツと。
いつかは一日20枚くらいコンスタントに書けるようになりたいです(←夢)
実家に新年の挨拶に行きました。
一番の感想としては
「たばこの臭いが辛かった」
ヘビースモーカーズに育てられたわたしですが、自身はたばこを呑みません。
旦那も喫煙しないので、退職した今「たばこの臭い」耐性は、限りなくゼロに近づいているのでしょう。
たまに実家に行くとその臭いに「うへぇ」と思うのでした。
ゆっくりしていってくれればいいのに、などと母は言うのですけれど……あの臭いの中に六時間以上はいられません。子ができたら、なお一層里帰りはしなくなるだろうな(苦笑)
帰宅して、髪や服に染みこんだ臭いに再度「うへぇ」
さっそくクリーニングに出すことにしましたが……四日まで置いておかなければならないのは、ちょっと辛い。他のものにも臭いが移ってしまいますからねぇ……。ビニール袋にでも入れておくかな。
髪は三度も洗ったのにまだ臭いが取れません。明日の朝もう一度流すことにしました。
実家にいる頃は、たばこなんて、あえて話題にするほど気になるようなものでもなかったんだけど。
思えば、おそらくわたしからは、いつもたばこの臭いがしていたのだと思います。
……なるほどそれで「ねえ、火ぃ貸してくんない?」とか「あんたも呑む?」とか、言われていたわけですか。合点。
ヤニ臭まとって「わたしはタバコはやらないんです」だなんて、白々しいと思ってただろうなあ……ああ、誤解なのに。
っていうか、臭いのすくないたばこもある昨今、どうして小屋の、しかも真っ赤なのんを好むよ、父、そして母。
そういうことで今年は折に触れ、白い小屋を手土産に訪ねることにいたします。
*小屋:要英訳。
謹んで初春のお慶びを申し上げます。
みなさまに幸多き一年でありますように。
こちらはささやかながらに年賀状です → 【NewYearGreeting】
あえて鶏が半分なのは、まったき「幸せ」には互いにそれを望むことが大切だから。
さて、一年の計は元旦にあり、ということで、本年の抱負を。
まずは、真面目に家事に取り組むこと。
当面の目標としては、「手の抜きどころ」を見極めることでしょうか。
家事に意欲を燃やせない(苦手じゃないけど興味がない)のは、もはや性分、変えようのないことなので、いかに能率化効率化するかを模索する方向からアプローチしてみようかと。
ついで、創作にも意欲的に取り組むこと。
これも当面の目標は、鬼喰第三話と風紋の定期的な更新+Eyes第一幕の完結。更新頻度としては十日を目安に。
小説以外の創作では、MIDIを頑張りたいと思います。
とりあえずは以前公開していたアレを修正することからかな。
そんなところです。
そして今年の座右の銘は、源順(?-983)の詩文
十八公の栄は霜の後に露はれ 一千年の色は雪のうちに深し
です。意味は、
「松の素晴らしさは霜が降りた後も色が変わらぬことで顕れ、
変わらぬその色は白雪の中にあってなお鮮やかなのです」
かな。
決して生きやすい世の中ではないからこそ、凛としてありたいと思います。